不撓不屈・独立独歩の明治のジャーナリストたち

明治のジャーナリストたちが、当時の紙上などで発した「記者の心得」を抜粋しました。

写真左宮武外骨(みやたけ・がいこつ)

1867年~1955年
■香川県綾川町出身のジャーナリスト、雑誌編集・発行者、著述家、明治文化・風俗・新聞雑誌研究家
■雑誌発行・編集者として『頓智協会雑誌』『滑稽新聞』『此花』『不二』『奇』『ザックバラン』『スコブル』『赤』『変態知識』『面白半分』などを発行
■筆禍で入獄4回、罰金刑15回、発行停止・発売禁止14回
■浮世絵研究、古川柳研究、猥褻研究、筆禍史研究、近世風俗史研究、明治新聞雑誌研究など特異なジャンルでの著作多数
■還暦後は東京大学法学部明治新聞雑誌文庫の設立にかかわり、主任として資料蒐集・充実のため奔走
〜吉野孝雄氏のブログ『宮武外骨解剖』より〜               

「威武に屈せず、富貴に淫せず、ユスリもやらず、ハッタリもせず」

「天下独特の癇癪(かんしゃく)を経(たていと)とし色気を緯(よこいと)とす。過激にして愛嬌あり」

「一度書いたことは二度と書かぬなど言わず、その実効を奏するまでは何遍でも繰り返すこと」

「情実を避けなければならぬ。多数人との交際をせぬこと。招待などには一切応ぜぬこと」

写真中央桐生悠々(きりゅう・ゆうゆう)

ジャーナリスト。本名は政次。 1899年東京大学法学部卒業後、『下野新聞』『大阪毎日新聞』『大阪朝日新聞』などの記者生活を経て、1910年『信濃毎日新聞』の主筆に招かれ、憲政擁護運動のなかで堂々の論陣を張ったが、社の経営方針と対立して 1914年に辞職。まもなく『新愛知』 (現在の『中日新聞』) の主筆に招かれたが、第2次憲政擁護運動のなかで 1924年に退社。日刊新聞の創刊などに失敗したのち、1928年再び『信濃毎日新聞』の主筆に返り咲き,治安維持法や軍備増強、五・一五事件などを激しく批判した。このため軍部は不買運動など、あらゆる圧力をかけ、ついに悠々は 1933年 12月辞職。その後名古屋に移住し、個人誌『他山の石』を創刊して、反軍、反ファシズムの言論活動を展開、1941年の廃刊に追い込まれるまで、30回近い発禁や削除の弾圧を受け、経済的にも窮迫しながら、自分の立場を守り続けた。 〜コトバンク「桐生悠々」より〜

「私は言いたいことを言っているのではない。国民として、特に、この非常に際して、しかも国家の将来に対して、真正なる愛国者の一人として、同時に人類として言わねばならぬことを言っているのだ。言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならぬことを言うのは、愉快でなくて苦痛である。何ぜなら、言いたいことを言うのは、権利の行使であるに反して、言わねばならないことを言うのは、義務の履行だからである」

「将来の新聞記者は創造的作者であらねばならない。六十歳の、又これよりも、もっと年取ったものの言に聴いて、神秘主義を尊捧するに至っては、その存在理由を失うのは明である。見よ、彼等は既にその存在理由を失わんとしつつある。試みに街頭に出て、民衆の言うことを聞け、彼等は殆んど挙げて今日の新聞紙を無用視しつつあるではないか」

写真右陸羯南(くが・かつなん)

日本の国民主義の政治評論家。日本新聞社長。正岡子規を育てた。
羯南が起こした『日本』新聞は、伊藤・黒田・山県・松方・桂等の歴代内閣に対して明治22年(1889年)より同38年(1905年)までの間に合計31回、233日に及ぶ発行停止を食らっている。その中に明治22年(1889年)8月7日からの15日間(黒田内閣)、明治24年(1891年)5月24日から23日間(第1次松方内閣)という長期に渡る発行停止処分もある。最も集中的に弾圧されたのは、明治26年(1893年)末から翌年の正月にかけての第2次伊藤内閣に迫ったときである。それは12月4日(3日間)、12月27日(7日間)、翌年1月5日(10日間)、2月10日(5日間)のわずか2か月の間に25日間発行停止処分にされている。羯南は、自らの日本主義を国民論派または国民旨義と規定し、根本的立場とした。実践上ではどこまでも根本的立場を貫いた。それが上に記述した発行停止処分を受けたことに示されている。 〜ウィキペディア「陸羯南」より〜

「独立的記者の頭上に在るものは唯だ道理のみ、唯だ其の信ずる所の道理のみ、唯だ国に対する公儀心のみ。其他に牽制を受くべきものあらざるなり故に機関的記者に比しては其筆は自由なり。而して営業的記者に比しては一定の識見あるだけそれだけ不自由なり」

「独立的記者は党派の代りに道理を其の主人と為し、時ありてか輿論を代表せずして寧ろ之を誨誘するの職分を有す」

「営業的新聞は一定の識見なく唯だ多数の読者を得て印刷したる報告を売り付けんことを是れ勉むのみ。独立的新聞は則ち然らず。夙に一定の識見を挟みて重要なる事項には一々己の判断を付け、強て世人の気に入らんことは固より其目的とする所にあらず。是れ実に営業的新聞の異なる所の要点となりとす。是の故に之が記者たるものは第一に識見及節義あるに非れば不可なり」