鷹山は手始めに、能力がありながら、左遷されていた人物を改革に登用した。そして、藩主自ら質素倹約に努め、殖産を起こして、家臣らに田畑の開墾等を奨励した。さらに養蚕や織物等の開発にも努めた。藩主自ら、進んで領民の状況を見て回り、領民のための政策を次々と生み出した。

コトバンクの「上杉鷹山」には、下記の記述あり。
「農村支配機構整備(代官制改革)、農村復興,産業の開発および藩校の興譲館の設立を進めたが、自らも食事は一汁一菜、衣は木綿着とし、奥女中の削減や仕切料を3分の1とするなど、徹底した質素倹約を実行した。政治に当たっても、厳正と寛大を旨とし、安永2(1773)年改革に反対する重臣による七家騒動に対しては、果断な処置をもってのぞみ、安永改革の最大の功労者,竹俣当綱の失脚においても,厳正な処分を行っている。

鷹山は家臣らに礼を尽くし、改革への参加を呼びかけたが、若い新藩主を舐めていた旧藩主の重臣らは、これに従わなかった。そこで、手続きを踏みつつ、最後の最後で、重臣らに厳しい処分を下した。重臣だけでなく、鷹山の右腕として改革を推進してきた家臣の竹俣当綱の汚職が発覚した時も、厳正な処分を行っている。自らの取り巻きかどうかで、物事を判断することはなかった。
こうして、公正無私な鷹山の改革に賛同する家臣や領民らが増え続け、結果的に上杉藩の財政は持ち直した。

ウィキペディア「上杉鷹山」によると、「天明年間には天明の大飢饉で東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努め、自らも粥を食して倹約を行った。また、曾祖父・綱憲(4代藩主)が創設し、後に閉鎖された学問所を藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平洲・神保綱忠によって再興させ、藩士・農民など身分を問わず学問を学ばせた」とある。

鷹山は身分を問わず、家臣や領民たちを公平に扱い、学問の普及にも尽力した。今でいう防災にも取り組んだ。こうして上杉藩は、立て直しに成功し、家臣や領民らは、鷹山の徳を偲んだという。米沢では、「鷹山」と呼び捨てする者はなく、「公」をつけ「鷹山公」と呼ぶのが習わしとなっている。

1 2 3