諸々の書籍や学者らの見解によると、いわゆるジャーナリズムの始まりは、幕末以来のものといわれてます。しかし、それ以前の時代でも、ニュースを伝える形は、「瓦版(かわらばん)」として存在しました。哲学者の鶴見俊輔は『ジャーナリズムの思想』筑摩書房(1965年)で、「日本でははやくから日記文学が発達したこと、おおやけのものだけでなく、わたくしの記録も重んじてきたことの中に、日本のジャーナリズムの根があるだろうし、今後も新聞・雑誌などの職場をすでに与えられた者の活動を越えて、市民のなしうる記録活動全体の中にジャーナリズムの根を新しく見出すことに日本のジャーナリズムの復活の希望があると思う」(P8)と述べています。

ウィキペディアの「瓦版」は、次のように説明しています。

瓦版(かわらばん)は、江戸時代、天変地異や大火、心中など時事性の高いニュースを速報性を以って伝えた情報紙のこと。街頭で読み上げながら売り歩いたことから、読売(讀賣)ともいう。木版摺りが一般的。また、多くは一枚摺り。絵入りのものなどもあり、幕末期には多く出版され、浮世絵師の歌川国芳らが描いていた。これらは無許可で出版される摺物であった。明治初期までは出版される事があったというが、その後は新聞の登場などにより衰退した。現存する最古の瓦版は大坂の陣を記事としたもの。

←瓦版を売るの姿。なお、時代劇などでは左側の姿でしばしば登場するが、このように顔を露わにするのは明治維新直前まで無く、右のように編笠を被って顔がわからないように売った。「伊藤, 晴雨, 1882-1961江戸と東京 風俗野史」   

 

                                                                                                            

幕末までは、「編み笠を被って、顔がわからないようにして売った」といいます。幕府の力が強かった時は、弾圧を恐れて、顔を隠して活動していたのが、庶民ジャーナリストたちによる草の根ジャーナリズムの始まりといえます。

ジャーナリズムの発展に、影響を与えたのが、活版印刷の登場です。インターネットが普及し、情報伝達が劇的に変化した現代と同じで、当時の人々の意識に重大な変化をもたらしました。

ウィキペディアの「活版印刷」は次の通り。

史上初めて木版印刷(一枚の板で版を作るもの)及び活字印刷がおこなわれたのは中国である。中国・日本のような漢字文化圏においては、活字の数が膨大なため、活版印刷はあまり定着しなかった。また縦書きの崩し字を活版で印刷するのはかえって手間がかかる、本を再版するには再度活字を組まねばならないという事情があった。(中略)江戸幕末期の西洋式活版は、安政3年(1856年)に長崎奉行所の西役所でオランダの器械を用いたのが最初である。安政4年1857年、江戸幕府の洋学所・蕃書調所においてスタンホープ手引印刷機を用いた印刷が行われた。

蕃書調所で印刷したのが「官版バタビア新聞」。これが、活版印刷を用いた日本初の新聞といわれています。当時は、外国の新聞を翻訳する形で、世界情勢を伝えました。外電のようなものでしょう。

鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』には次のように書かれています。

日本のジャーナリズムの原型はインターナショナルなものを持っていた。そのほかにもうひとつ、それが幕臣的性格を持っていた。(中略)彼らが進行中の維新の変革を見る眼は、幕臣としての希望的観測がくわわっているために誤報が多いという制約も生じたが、同時に明治の変革のいたらない面をするどくとらえる長所もそなえていた。(中略)明治初期の新聞・雑誌による新政府批判は、まず旧幕臣ジャーナリストによって進められ、やがて自由民権運動に参加する青年たちによって受け継がれた。宮本外骨著の『筆禍史』(1911年)によると、明治の新聞の発禁は、明治元(1868年)5月18日、福地桜痴の編集する『江湖新聞』が官軍ににらまれ、編集者は投獄、版木は没収、新聞は発禁と処分に遭ったことに始まる(福地は後に御用新聞を経営)。明治8(1875)年に新聞紙条令と讒謗律がつくられてから、おびただしい数の新聞発行者が投獄と発禁の憂きめにあった。(P15〜17)