大正デモクラシーという言葉を、若い世代は知っているでしょうか。昭和生まれのウオッチドッグ記者は、大正というと、「デモクラシー」、いわゆる民主主義が発展した自由なイメージを持っていましたが、その裏ではさまざまな問題が現れていました。

明治半ばから、大正にかけて、識字率の高まりとともに、民衆の権利意識が目覚めました。

政治面においては普通選挙制度を求める普選運動や言論・集会・結社の自由に関しての運動、外交面においては国民への負担が大きい海外派兵の停止を求めた運動、社会面においては男女平等、部落差別解放運動、団結権、ストライキ権などの獲得運動、文化面においては自由教育の獲得、大学の自治権獲得運動、美術団体の文部省支配からの独立など、様々な方面から様々な自主的集団による運動が展開された。~ウィキペディアの「大正デモクラシー」より~

大正年間を通じて都市に享楽的な文化が生まれる反面、スラムの形成、民衆騒擾の発生、労働組合と小作人組合が結成されて、労働争議が激化するなど社会的な矛盾も深まっていった。 ~ウィキペディアの「大正」より~

民衆運動が活発になった大正時代に、政府は、治安警察法に代わる治安立法の制定に着手したといいます。「治安維持法」です。

1923年の関東大震災時に緊急勅令として公布された治安維持令などを集成して,「国体ヲ変革シ,及ビ私有財産制度ヲ否認セントスル」結社や運動を禁止するため違反者に懲役 10年以下の実刑を科した。さらに 28年の田中義一内閣は緊急勅令で法改正を行い,「国体変革」の罪には死刑をも適用することにした。さらに 41年には予防拘禁制の導入などの改正があり,最初7条だった治安維持法は 65条にもなった。この法の最初の適用は,1925年 12月~26年4月の学連 (全日本学生社会科学連合会) 事件だが,第2次世界大戦後の1945年 10月に GHQ指令で廃止されるまで,社会主義運動や労働運動はもちろん,思想,学問,言論,表現など一切の自由への過酷な弾圧の法的根拠として,処断者は数万人にも及んだ。 ~コトバンク「治安維持法」より~

そんな時代風景の中、ジャーナリズムは、どのような動きを辿ったのでしょうか。

明治も中期になると、黒岩涙香の「万朝報(よろずちょうほう」や、秋山定輔の「二六新聞」が勢力を伸ばす。万朝報は、スキャンダル・ジャーナリズムとして、大衆の心をとらえた。これらの新聞は、1873年に始まった学生布告が実り、字の読める大衆が20年後、30年後に登場してきたことにささえられた。

字の読める大衆が増え、大衆新聞が売れ始めると、明治はじめの政論中心の「大新聞」と、娯楽中心の「小新聞」の統合が加速され、現代につながる新聞の形が大正時代に定着することとなる。新聞から20年遅れて、雑誌でも、大衆向きジャーナリズムが生まれた。

ジャーナリズムの機関が大きくなると、その犠牲者の数も大きくなり、犠牲者による抗議の声はジャーナリズムを通して聞かれにくくなる。黒岩涙香が赤新聞で始めたようなセンセーショナリズムをとるようになるので、無理に記事をおもしろく、大げさにする結果、報道される者にとっては、その記事は真実からほど遠いものになる。報道された側の多くは、泣き寝入りすることになった。 ~鶴見俊輔『ジャーナリズムの思想』(1965年)を参照、要約~

大正15年頃・ラジオを聴く子ども

東京に拠点を置いていた『時事新報』、『國民新聞』、『萬朝報』の主要紙が関東大震災の影響で被災して凋落し、取って代って大阪に本社を置いていた『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』が100万部を突破して東京に進出、それに対抗した『讀賣新聞』も成長を果たして、今日「三大紙」といわれるようになる新聞業界の基礎が築かれた。

1925年(大正14年)3月には、東京、大阪、名古屋でラジオ放送が始まり、新しいメディアが社会に刺激を与えるようになる。

大正前期、新聞について書かれた記事によると、『風俗書報』第四六七号(一九一六[大正五]年一月)の「新聞紙」にて柏拳生は「新聞紙は斯く重宝なるものとして貴ばるゝと共に、群衆心理を左右する恐るべき魔力を有す。」と述べている。また、光本悦三郎『鞍上と机上:続東京馬米九里』(一九一四[大正三]年一二月 無星神叢書)の「新聞の裏面」にて「群盲は新聞の裏面を知らないで、表面に現れた文字だけよりかは何も知らない。」とあるように、大正期の新聞は人々に多大な影響を与えた。 〜ウィキペディアの「大正」より〜

新しいメディア媒体のラジオが登場し、新聞も組織化、巨大化、大衆化することにより、マスメディアの影響は、大衆にさまざまな影響を及ぼすことになります。