「ウオッチドッグ」記者が、「滑稽新聞」の存在を初めて知ったのは、「ウオッチドッグ」デスク(小黒純)が、「実践ジャーナリスト養成講座」(平凡社)で、宮武外骨が発行した「滑稽新聞」について言及していたからです。

不撓不屈の精神を持った反骨明治人ジャーナリスト、宮武外骨は『屁茶無苦新聞』『頓智新聞』『滑稽新聞』など、時の権力者を風刺やパロディで皮肉る160種類の新聞や雑誌などを刊行し、投獄5回、罰金刑15回と、厳しい弾圧を受けた。彼は『滑稽新聞』の中で、「滑稽新聞の本領は、強者を挫いて弱者を扶け、悪者に反抗して善者の味方とするもの」としるし、表紙には「威武に屈せず富貴に淫せずユスリもせずハッタリもせず」と印刷していた。これは、権力に言論を売り渡す「ユスリ記者」、今風にいうとブラックジャーナリストに対し、外骨が徹底的に追及していくという現れであろう。~実践ジャーナリスト養成講座/よい記事・悪い記事の文中より~

宮武外骨と滑稽新聞の名前を初めて目にしてから、月日が流れました。

そして、2017年。大津市の調査をし続けた3年間で、いわゆる大手メディア数社に膨大な調査資料を渡し、情報提供もしたが、1発だけ書いて終わりの新聞社がほとんど。中には、取材すらできない、まともに書けない“プロ記者“の姿も目の当たりにしました。

昔の記者は、こんな体たらくではなかっただろうと、「自由な言論」を求めて闘った、明治時代のジャーナリストたちのことが頭に浮かびました。そこで、かつて目にした宮武外骨のことを調べてみようと思いました。

「宮武外骨解剖」を主宰し、宮武外骨研究の第一人者でもある吉野孝雄氏が編著した本を何冊か読みました。

宮武外骨はすごい人でした。どんな過酷な状況下でも、書き続けました。世論や権力に迎合せず、晩年まで批判精神を貫き続けました。明治政府や悪徳商人、詐欺師、ユスリ新聞記者らを追及しました。

明治時代は、ユスリ記者が横行していたことを、初めて知りました。
「大津WEB新報」について、ある研究会で報告したことがありました。出席していた某新聞社の論説委員は、「自治会の問題など、大津市民は興味がない」と発言。さらに、大津市の市政記者クラブのていたらくを指摘すると、「記者クラブは記者が休憩する場所」と言いました。市政記者クラブには仕事でなく、「ネムリ」に行っていたそうです。
寝ているような質問だけでなく、本当に寝ていたとは・・・。現代は「ユスリ」でなく、「ネムリ論説委員」、「ネムリ記者」だらけということでしょうか。

現代のネムリ記者を見たら、宮武外骨はどう思うのでしょう?

当時のユスリ記者たちを、宮武外骨は、どう追及したのでしょう?

宮武外骨が発行した代表的な新聞「滑稽新聞」とは、どんな新聞なのか、記者の好奇心がムクムクと湧き上がってきました。幸い、明治時代の「滑稽新聞」の原文を数冊の本に分けてまとめた本が、筑摩書房から出ていました。毎月2回発行で8年間発行し続けた「滑稽新聞」を6冊の本として編集したのは、吉野孝雄氏や赤瀬川原平氏。大変な作業だったろうと頭が下がります。

 

明治の「滑稽新聞」が書籍として、生き生きと蘇っていました。明治時代のジャーナリストが書いた貴重な新聞を、現代の私たちが1冊の本として目にすることができます。こんなワクワクすることはありません。

反骨のジャーナリスト宮武外骨が書いた記事は、現代の私たちにとっても読みやすいものでした。当時の庶民でもわかるように、平易な文体で、絵や写真を使い、巧みに権力の欺瞞さを暴き出しています。

←宮武外骨が滑稽新聞の記事を書いている姿。「ハッタリ」、「イカサマ」「ユスリ」など、痛烈な批判文言が散りばめられています。「滑稽新聞」の風刺イラスト。

 

 

記事の構成、写真の構図、頓智の効いた言葉遊び、痛快な風刺画。どれをとっても、現代でも違和感のない新聞に仕上がっています。時代の最先端ですが、当時の人々は度肝を抜いたことでしょう。外骨は、100年先を見据えた新聞を作りました。

記事の1つずつを読むと、今と変わらない権力の構造、政治家や役人の対応に、「一緒だ」とびっくりしました。制度や名称が変わっても、権力というものと、それに群がる人たちのやり方は時代を経ても変わりません。

「強者を挫き、弱者を扶ける」

「権力の腐敗を言論で追及する」

「滑稽新聞」は、明治時代のウオッチドッグ新聞です。時代を超えた限りない共感から、ウオッチドッグは、明治の「滑稽新聞」をインターネット上で蘇らせます。

↓明治36年1月1日発行の滑稽新聞より