取材で訪れた徳島県那賀町木頭地区の地元住民の方がしきりに「藤田恵元村長が…」、「那賀川上流の細川内ダム建設計画をストップさせ…」と話をしてくれたので、旧木頭村で何があったのか興味をもった。
徳島県那賀町の町議、重陵加さんの案内で、ウオッチドッグ記者は那賀川にあるダムや、上流の森林などを視察した。2025年7月5日から7日まで3日間という短い期間の滞在だったが、その時に交流した木頭地区(那賀川上流)の住民の方から、那賀町に合併前の旧木頭村の取り組みの話を聞いた。
今から25年前の2000年、この小さな地域が、国を相手にして、日本の行政史上初めて巨大ダム計画を中止させたという。その時、旧木頭村の住民や村長がどのような行動をとったのか。
旧木頭村の藤田恵村長(当時)が書いた2冊の本『ゆずの里 村長奮戦記 ~渓谷の里から自然保護を訴える』(悠飛社、1999年)と『木頭村 ~その山河が問いかけるもの』(東京シューレ出版、2020年)から、村の軌跡を追いながら紹介する。ちなみに、最初に地元住民の方から「藤田恵元村長」という名前を聞いたときは、女性というイメージをもっていたが男性だった。

那賀川総合開発計画の始まりは、太平洋戦争が終わってから5年後の1950(昭和25)年。住民たちのあずかり知らないところで国の河川開発計画が始まった。細川内ダム計画より下流の長安口ダムは1950年に徳島県那賀川第一次総合開発の一環として工事に着手し、1957(昭和32)年に完成。1961(昭和36)年に川口ダムと小見野々ダムが完成。さらに細川内ダムの建設実施計画の着手が発表されたのが1972(昭和47)年だった。
1974(昭和49)年には徳島県がダム建設推進対策班を設置した。その年から、国と県を相手にした木頭村の住民によるダム反対の住民運動が始まる。当時の木頭村の村議会は「木頭村総合開発基本法構想」を可決した。その議会の動きに反発した住民らが「ダム反対同士会連合会」を結成した。反対住民らは署名を集め、村議会の解散を請求し、村議会が解散した。

戦後5年目1950(昭和25)年に着手ということは、占領政策の時期。米国を中心とした連合国軍の日本占領期間は1945(昭和20年)9月2日から1952(昭和27)年4月28日まで。巨大ダム建設による日本の一級河川、那賀川を開発する総合開発計画は占領期間にスタートしたということです。
1975(昭和50)年に、木頭村では「木頭村ダム対策協議会」が開催され、ダム建設の可否を研究し、村長に答申をした。1976(昭和51)年には、小見野々ダムの土砂堆砂の問題が深刻になり、土砂を取り除く決議案が村議会で可決された。一方、村議会臨時会では「ダム反対決議案」を否決した。その直後、木頭村ダム対策協議会がダム建設拒否の答申をし、今度は「ダム反対決議案」を可決した。過去の軌跡をみる限り、村議会内でもダム建設を巡る攻防が激しかったといえる。

かつての木頭村の村議会で攻防があったということは、住民同士も反対と賛成に分かれ、コミュニティに亀裂が生じたことは容易に想像できます。上からの押し付け計画は、そこで暮らす住民らの地域コミュニティにも深刻なダメージを与えます。
1991(平成3)年になると、建設省(現在の国土交通省)が、村及び地元に無断で、ボーリング資材運搬のモノレールを設置した。さらに、1993(平成5)年度の国の予算案で、細川内ダム建設事業費4億円が採択された。国予算案が採択されたことを受け、徳島県議会が「細川内ダム建設事業の促進」を採択した。当時の徳島県は、地元の事情を無視して強硬に計画を進める国に追随したといえる。徳島県による細川内ダム建設事業促進の採択後、木頭村の「細川内ダム反対同士会」が村議会議員5人のリコール請求をするため、住民署名を集めて提出した。直後、木頭村の当時の村長が辞職した。

建設省が地元に無断でモノレールを設置するような強引な行動をとるからますます地元住民の反発を招き、結局のところ、木頭村の住民らを一致団結させる結果となったといえますね。徳島県は国のやり方に追随していたようですし、国や県が一体となって押し進める中で、住民署名を集めて行動に移す木頭村の村民たちの行動力が物事を動かしたといえます。自主自立な民です。
この混乱の中、那賀川上流の細川内ダム計画反対を公約に掲げた藤田恵氏(元NTT職員)が木頭村の村長に初当選した。ちなみに、1993(平成5)年の年は、細川護煕(日本新党)を首相とした連立政権が誕生、平成不況、ゼネコン汚職、金丸信氏(自民党の元副総裁)が脱税で逮捕されるなど、政治汚職と不況が吹き荒れた年でもあった。
木頭村の軌跡を見る限り、藤田村長だけでなく、1970年代からおよそ30年間、名もなき住民らが、那賀川総合開発に疑問を持ち少しずつ動き団結し、継続してダム反対運動をしていたことがわかった。

木頭村の藤田村長(当時)は、幼少の頃、林業や農業にも従事していたようです。農業や林業にも熟知しているからこそ、将来世代のために、森と水を守る信念を貫けたんでしょう。藤田元村長が書いた2冊の本は、本の帯にも書いている通り「木頭村からの警告」の書ともいえます。



