徳島県の小さな村が国を相手に、那賀川上流の細川内ダム建設反対運動をして、中止に導いてから約25年。建設予定地だった細川内ダムよりも下流に作られた小見野々(こみのの)ダムや長安口(ながやすぐち)ダムは、現在、堆砂問題に悩まされている。
もし、細川内ダムも予定通り建設されていたら、上流の清流も潰され無残な姿になり、同様の堆砂問題が生きていただろう。
当時の木頭村の村長だった藤田恵氏は著書2冊の中で、幼少期より林業や農業に従事していた実践経験に基づき、荒廃した森林が土砂流災害をもたらすと警告していた。

著書『木頭村 ~その山河が問いかけるもの』東京シューレ出版(2022年)」では、土砂流災害の要因をいくつか挙げている。
①戦後の「拡大造林」と、手入れ不足による山肌の過大浸食。
②急峻な地形に幅員が広すぎる農林道の開設。
③川や沢の直線化。
④里山の喪失。
⑤砂防ダム
これらの要因をあげていた。
まずは木々の植え付け本数の違い。
「拡大造林」の問題では、戦後の植え付け本数の違いに言及している。戦前、1ヘクタール約500本を植え付けしていたが、「拡大造林」では5,000本以上の密植林に変わった。
そして、植える場所の違い。
戦前、崩壊しやすい尾根付近と沢付近は広葉樹を残し、杉を植えていなかったが、「拡大造林」では尾根や沢の広葉樹を皆伐して杉を密植した。
戦前の杉林は木々の間隔が広く、枝葉が成長して大きく広がっても、日光を遮ることがなかった。杉林の中まで日当たりがよく、草や小木が育ち、腐葉土の厚さも約50cmあり、表土の上には広葉樹の葉と杉の葉が混じり保水力があったという。
一方、「拡大造林」では、密植のため、杉林の中へ日光がほとんど当たらないため下草が全く育たない。そのため少しの雨でも表土が浸食されるという。杉は細くモヤシのように伸びて、根の広がりも狭い。杉はただ岩盤の上に支えのない棒が立っているような不安定な状態になっている。
さらに、藤田元村長は「拡大造林」と並行して、急峻な斜面に幅員が広すぎる農林道を、崩壊しやすい地形、土質などを十分に考慮しないで敷設したことを、土砂流災害の要因に挙げている。かつての政権は、土建業者から政治資金を集めるために、業者の利益が大きくなるよう、幅4メートル以上の広い道路に補助金をつけたという。


文部科学省のホームページに、「拡大造林」について言及していた文書がありました。お役所なので、あからさまに批判できない背景はあると思いますが、それでも、奥地の国有林などが広い範囲で皆伐され、河川の流れが不安定になったことや土砂災害が多発するという報告があったことに言及しています。「野心的な造林政策」とも書かれていました。
↓[参照]文部科学省のホームページより/「拡大造林」に言及部分を抜粋
わが国では有史以来20世紀の半ばに至るまで、木材需要のほとんどを国内の森林でまかなってきた。しかし長年にわたって森林が酷使されてきたことも否めない。特に第2次大戦をはさんで過伐が続き、1950年の統計によると森林1ha当たりの林木蓄積量は67m3というきわめて低いレベルまで低下している。その後、外材がスムーズに入ってきてくれたお陰で、国内での森林伐採が急速に減少し、林木ストックの増加につながっていく。かりに外材が思うように輸入できなかったとしたら、わが国の森林は疲弊の度をさらに深めていたであろう。今では森林1ha当たりの林木蓄積が200m3を超え、主要なヨーロッパの諸国と肩を並べるまでになっている。
しかしこれは当初政策当局が描いていたストーリーとはまったく違った展開である。わが国の戦後の林政は「敗戦ショック」に始まった。台湾や満州、樺太などの植民地を失ったうえに、北米やロシアなどからの木材輸入も望めない。7,000万の人口が必要とする木材を国内の森林だけでまかなうにはどうしたらよいか。そこで打ち出された政策が国内の森林の半分以上を成長の早い針葉樹の人工林に切り替えるという野心的な造林政策である。具体的には老齢過熟の奥地の天然林や成長の衰えた里山の広葉樹林を積極的に伐採してスギやヒノキを植えることであった。
たまたまこの当時は木材が不足していて材価が高騰していたために、この「拡大造林」政策は順調に進展する。ただ奥地の国有林などが広い面積にわたって皆伐され、河川の流れが不安定になったとか、土砂災害が多発するといった報告も聞かれるようになった。また山岳地の天然林を伐って植林したものの、うまく成林しなかった例も少なくない。森林構成の急激な変化と針葉樹人工林の拡大で、森林の生態的な安定性が一時的にせよそこなわれていたことは否定できないであろう。
1970年前後から本格化した外材輸入で、木材生産の縮小が始まり、森林伐採に起因する環境問題も次第に影を潜めてゆくが、その一方で木材が売れなくなって肝心の林業経営が回らなくなった。かつて薪炭林として使われていた広葉樹を切り替えて人工林にしたものの、除間伐などの保育作業ができなくなり、不健康な過密林が増えることになった。さらに人工林がしだいに成熟して市場出荷が視野に入ってきているのに、林道・作業道の整備と維持管理がないがしろにされてきたため、効率的な伐出システムが導入できなくなっている。
↓「先人の築いた歴史遺産を訪ねて№2」/滋賀県大津林業事務所発行本より抜粋

滋賀県でも、かつて田上山のはげ山による土砂災害が起きてました。大戸川を埋め、瀬田川の河床が上がり、さらには洪水なども起きていました。大津林業事務所発行の書籍によりますと、田上山は、奈良時代頃までは「近江の国は水海清うして広く、山木茂りて長し」とあり、「うっそうたる大森林」、「樹木の生い茂る一大美林地」だったそうです。
それが、奈良、平安時代になると、藤原宮などの宮殿、神社仏閣という大規模建築物造営のため乱伐、さらに、時代を経て戦乱による焼失などで、田上山は長らくはげ山状態になりました。元々、花崗岩の風化が進んだ地域だったため、新たな植生が根付かず、森林の荒廃が拡大しました。
明治時代に入ると、市川義方という人物が編み出した「積苗工法」に、滋賀県の林業者、西川作平氏が土地にあった植栽を推奨し、地元住民らが長い年月をかけて植林を行い、現在では緑が回復してきているとも書かれています。
ウオッチドッグ記者が、十数年前、地元の古老に聞いた話では、はげ山の頃は、大雨が降り警鐘が鳴ると、地元を流れる川がみるみる溢れていたそうです。80年の年月をかけて植林したとも話していました。山に緑が戻った今は川が溢れることはなくなったそうです。

健全な森林の土壌には、小さな隙間がたくさん有り、これがスポンジの働きをして、大雨の時にも水を吸収するため、一気に谷川に流れ出ない。反対に、日照りが続いた渇水時には、土壌が蓄えた水を徐々に流すなど、手入れの行き届いた森林は優れた保水機能を有し、出水調整の役を果たしています。また、森林は無数の根茎を土壌中に張りめぐらせて、土をしっかりつかんでいるため、大雨が降って土がやわからかくなっても、土砂の崩壊を防ぐ働きがあります。
さらに、雨が森林の土壌中を通る間に水質が浄化され、雨水と谷水は成分がかなり違っております。森林と裸地の浄化力の差は、林野公共事業研究会発行の資料によると、窒素の場合、年間降雨に含まれる窒素7.2㎏/haに対し、森林からの流出量は1.7㎏/hsにまで減少していますが、裸地からの流出量は6.5㎏/haとあまり減っていません。リンの場合は、年間降雨量に含まれるリンは0.45㎏/hsに対し森林からの流出量は0.2㎏/ha、裸地0.27㎏/haとなっています。このように、森林は、洪水を調節するだけでなく、土砂の流出を軽減し、また窒素やリンを植物に吸収させ水質浄化に優れた機能を有しています。
滋賀県大津林業事務所「先人の築いた歴史遺産を訪ねて №2」共栄印刷、1996年3月
