ウオッチドッグ記者は2025年7月6日に、徳島県那賀町にある限界集落に向かった。お目当ては蝉谷神社(せみたにじんじゃ)だった。蝉谷那賀町木頭地区から、蝉谷川沿いの農林道を進み、ぐるぐる登った先にその神社はあった。
蝉谷神社は那賀町木頭助蝉谷下久保に鎮座している。神社の創建年代は不詳だが、平家の落人伝説が残っている地で、神社には樹齢数百年の巨大な杉があった。

「森と水」シリーズ№1から8で取り上げてきたように、那賀町の山と川の問題を地元町議、重陵加さんの案内で取材をした。
取材にはウオッチドッグ記者の知人女性も同行した。各地の神社で神楽を奉納している巫女でもあったので、重さんが「それなら、蝉谷神社に行きませんか?」と案内してくれた。神社には杉の巨木もあるという。明治時代の悪政「神社合祀」に、南方熊楠が反対運動をしたことについて、一時、文献調査していたウオッチドッグ記者も蝉谷神社へ向かうことにした。
蝉谷神社に着き、石段を登って進むと、目の前に巨大な杉がそびえ立っていた。他の杉と違って、どっしりとした存在感があった。数百年も生き続けている生命力を感じる。
「こんな山奥の小さな神社がよく残ってましたね」とウオッチドッグ記者はつぶやいた。というのも、明治時代、各地の小さな神社は、明治政府の「神社合祀令」で合祀の波に飲み込まれた。蝉谷神社もどこかの神社に合祀されていたら、この樹齢数百年の大杉もお金のために切られていただろう。
明治時代、「神社合祀」で鎮守の森を大伐採
明治時代の神社合祀とは何だったのか。明治政府は1906(明治39)年、「神社合祀令」を発令した。国家神道を確立するため、全国津々浦々に元々存在していた神社をランク付けして、小さな神社を廃社させ他の神社と合併させる政令だった。「一町村一社」を原則に神社を統廃合した。合祀先の神社へ経費を集中させ、廃社になった神社の森林を伐採して売った。村人たちの鎮守の森も容赦なく伐採された。
当時、和歌山県田辺に住んでいた知の巨人、南方熊楠が「神社合祀反対運動」を始めた。熊楠は粘菌学者でもあったので、貴重な森林が破壊されることに怒りを爆発させた。南方熊楠らの反対運動で世論が少しずつ動き、1920(大正9)年、貴族院で「神社合祀無益」と決議され終息したという。
南方熊楠の「神社合祀反対運動」/南方熊楠記念館ホームページより
話はもどるが、1906年(明治39)の終りごろから、第一次西園寺(さいおんじ)内閣は神社合祀を全国に励行し、次の桂内閣もこれを引き継いだ。これは、各集落毎に数々ある神社を合祀して、一町村一神社を標準とせよというもので、和歌山県はとくに強制威圧的に推進しようとした。
町村の集落ごとに祀(まつ)られている神社は、住民の融和、慰安や信仰の拠(よ)りどころであり、神社合祀は史跡と古伝を滅亡させるもので、合祀された神社林はその後、伐採(ばっさい)され、自然景観の破壊や解明されていない貴重な生物が絶滅するなどの理由により熊楠は神社合祀を反対した。
各地で住民が身近な神社の無くなるのを嘆くのを見て、当時、さきがけて合祀反対の立場をとっていた『牟婁新報』の社主、毛利清雅の新聞に反対意見を発表し、合祀を推進する県や郡の役人を攻撃した。
林業が廃れ、住民が減少する蝉谷集落
蝉谷神社は、もしかして明治時代の神社合祀を免れたのかもしれないが、時代の変遷で林業が廃れ、神社を信仰の拠り所としていた住民たちが次々といなくなった。
2023年4月7日付の朝日新聞に、蝉谷集落を取り上げたこんな記事があった。
徳島県知事選の告示から1週間後の3月30日、記者は徳島市から車で約3時間かけて集落を訪ねた。築約200年の古民家に妻と暮らす竹岡幸男さん(92)によると、大正時代には24世帯の集落だったが、20年余り前には10世帯に。現在は竹岡さんを含む2世帯3人となったという。
集落には、町の天然記念物に指定されている樹齢数百年の杉のご神木がそそり立つ蝉谷神社がある。竹岡さんは1人で境内にたまった杉の葉や枝を掃き清め、拝殿に供え物をし、祭りの伝統を守ってきた。
「大勢人がいたころは、地区の老人会が総出で境内をきれいに掃き清め、祭りでは子どもたちが神楽を舞っていた」
人口減少のきっかけは、かつて盛んだった林業の衰退だ。だが、残った住民も老いとともに高齢者施設などへ移っていったという。
2023年4月7日付・朝日新聞より
蝉谷神社の巨大な杉のちょうど目の前には、住民たちの憩いの場所であったかつての「集会所」があった。今では使われなくなり廃墟となっていた。屋根には枯れ枝や枯れ葉が積もっていた。かつて、この集会所に老若男女が集い、談笑したり、踊ったり賑わっていたのだろう。
人々の歴史を見続けてきた神木はうら寂しくもあり、荘厳でもあった。ウオッチドッグ記者一行は夕暮れの西日が差す蝉谷神社を後にした。

