明治の世に、記者を目指して上京した青年がいた。頓智の得意な青年は『頓智協会雑誌』を発行して大当たり。その勢いのまま、大日本帝国憲法発布をパロディ化した記事を出した。そこから、運命の歯車が動き出す。ただの頓智のはずなのに、頭の固い明治の役人は、青年を不敬罪で捕らえた。雑誌を発行する前に、1人の検閲官からOKをもらっていたが、不敬罪。3年8ヶ月も入獄するはめになった青年は、悶々とした気持ちのまま、出獄した。

青年の名前は、宮武外骨(みやたけ・がいこつ)。後の世に、反骨のジャーナリストとして、広く知られることになるとは、当時は知るよしもない。

それから数年後、大阪に移り住んだ外骨に、ひょんなことから、新しい新聞を発行する機会が訪れた。外骨が意気揚々と発行したのが「滑稽新聞」。変わった名前のタイトル、きびきびした威勢のいい論調、抱腹絶倒の風刺画、言葉遊びを駆使した頓智、妖しい女性の表紙ー。洒落の好きな浪花の庶民の心を捉えた。最大の武器の頓智と風刺を使い、明治政府や悪徳商人、詐欺師、ユスリ新聞社員を筆誅すること1年半。庶民たちの喝采を受け、売れに売れて勢いの乗った宮武外骨は、「滑稽新聞・第31号」で、「滑稽新聞様」というタイトルで、発行に込めた思いを連載で綴った。

明治の世も半ばを過ぎると、旧幕臣ジャーナリストたちが姿を消しつつあった。新聞や雑誌は、変動期で混沌とした時代を迎えた。

外骨の「滑稽新聞」はいかに動くのか。調査報道の源流を探る。乞うご期待あれ。

        ~「滑稽新聞」シリーズは、毎週水曜日に掲載予定~

↓参照:ウィキペディア「日本における検閲」より

大日本帝国憲法(明治憲法)は第26条で「信書ノ秘密」を、第29条で「言論著作印行集会及結社ノ自由」を定めていた。

大日本帝国憲法第26条
日本臣民ハ法律ニ定メタル場合ヲ除ク外信書ノ秘密ヲ侵サルルコトナシ
大日本帝国憲法第29条
日本臣民ハ法律ノ範囲内ニ於テ言論著作印行集会及結社ノ自由ヲ有ス

しかし、明治憲法の表現の自由は法律の範囲内における自由とされていたため、実際上、法律によって広範な制約が加えられていた[1]。具体的には、出版法(1893年)、新聞紙法(1909年)、治安維持法(1925年)、不穏文書臨時取締法(1936年)、新聞紙等掲載制限令(1941年)、言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)などが制定され、表現活動は強く規制されていた[1]

内務省による検閲

内務省は、讒謗律、新聞紙条例、出版法、新聞紙法、映画法、治安維持法などに基づき、書籍、新聞、映画の記事・表現物の内容を審査し、不都合があれば、発行・発売・無償頒布・上演・放送などを禁止や一定期間差止する検閲を行った。行政処分として、現物の没収・罰金、司法処分として禁錮刑を行った。