明治のジャーナリスト宮武外骨は、明治36年3月20日付の滑稽新聞・第45号で、四天王寺の「大釣鐘」を巡る各社の報道を検証し、滑稽新聞以外のほとんどのメディアが、大釣鐘が割れていることをはっきりと報じない「曖昧新聞」だと断じていた。

そんな報道状況の中、滑稽新聞の読者から、宮武外骨宛に投書が届いた。投書は、「葦分舟」で取り上げられている。葦分舟は、今でいう「読者の声コーナー」で、庶民の投書が毎号、掲載されていた。

読者は、「明源先生(※読者は外骨のことを明源先生と呼んでいた)、ご面倒ながらちょっとこの投書を見て下されよ」と書き、天王寺の割れ鐘を見て来たことを伝えている。「釣鐘の実物の割れ目は、同色の灰を以て塗ってあり、具眼者をごまかしている」と大釣鐘が割れていることを確かめたとしている。

さらに、面白いものを発見したと図入りで紹介。寺内観覧の立て札の「大つりがね」の文字が、風雨にさらされて、中央板が割れていた。本物の釣鐘は割れていて、入り口の看板も割れている。(割れた看板は)天然に出来た意匠なので、寺の坊主は気づかないでしょうと面白がっている。投書の最後は、正しい報道した滑稽記者に勝つ者なしで感服と、ヨイショで締めくくっている。

滑稽新聞以外のメディアが報じなくても、庶民は自分の目で確かめて、「大釣鐘が割れている」と事実を掴んでいた。


◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという