明治34年10月14日発行の滑稽新聞紙上で、大阪市会議員の野口茂平を筆誅した記事が、誹毀罪(現代の名誉毀損罪)にあたるとされていた裁判で、滑稽新聞社の有罪が、明治35年4月に大阪控訴院の判決で確定した。宮武外骨はその後も、偽薬の「肺労散」を販売している野口茂平をしつこく追及し続けた。風刺画や滑稽広告に野口茂平を度々、登場させるなど、野口茂平が最終的に改心するまで、掲載を止めることがなかった。筆禍を被ろうが、なお言論で不正をあぶり出すというジャーナリズムの信念を貫いた形だ。

1985年筑摩書房発行の「滑稽新聞 壱」で、吉野孝雄氏が、この裁判の結果について解説している。
宮武外骨はこの判決を受けて、「詐欺師茂平事件」という見出しの記事を掲載。記事の中で「本社は事実上有罪となったが、茂平は依然として悪漢なり、詐欺師なり。彼は、事実の有無は問わずという刑法の明文を盾としただけに過ぎない」と主張している。

↓有罪判決から4か月後の明治35年8月1日発行の滑稽新聞。「暑中見舞い」の風刺画。宮武外骨が筆に刺しているのは、野蜘蛛(野口茂平のあだ名)。

(注)筆禍とは/コトバンクより
発表した著書・記事などが原因で官憲や社会から受ける制裁または処罰。また、そのような災難。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという