平成の世、財務省の事務次官のセクハラ疑惑が話題になっているが、明治の世も“政官エロヒヒオヤジ“が跋扈していたようだ。明治のジャーナリスト宮武外骨は、明治36年の大阪市長・鶴原定吉と大阪府知事・高崎親章の宴会での乱痴気騒ぎと、元首相の伊藤博文の好色ぶりを、他紙の報道を交えながら、記事にしている。

明治36年8月5日付の滑稽新聞紙上で、大阪市長の鶴原定吉が、招待された宴の席で、隠し芸の「腹馬芸」を披露している様子を、「大阪新報」や、「萬朝報」が報じていると掲載。鶴原と大阪府知事の高崎親章が、園遊会の帰途、宴席を設けた。大阪市長が隠し芸として、逆に四つん這いになり、12、13歳の舞妓2人を腹に乗せて、座中を縦横に駆け回ったという。「高崎知事は笑って、定吉(市長)乗ったか、あいやどうどう」という結びの他紙の記事を取り上げている。

宮武外骨は、市長と県知事のこの振る舞いに対して、「糞タワケも糞タワケ、大糞タワケの骨頂。呆れた奴らではないか。コンナ奴らが国家の役人でいる間は、官紀の振粛も風俗の矯正もダメの皮だ。法律が無ければ打き殺してやりたい位に、癇癪が怒ってムカツクワイ」と、怒り心頭の記事を掲載している。

明治36年8月20日の滑稽新聞では、元首相で大勲位侯爵の伊藤博文の好色ぶりを紹介する記事を掲載している。「明治好色一代男」というタイトルで、伊藤博文を「風俗壊乱者の親玉」と記事にしている。滑稽新聞が、俗吏どもを筆誅する記事を掲載し続けたので、俗吏どもが、持ち前の卑劣根性を起こして、滑稽新聞を打ちつぶす手段を策略した、という。些細なことでも、滑稽新聞の記事が、「風俗壊乱罪」にあたると告発し、滑稽新聞を発行禁止にすることを裁判所に請求した経緯を紹介。記事では、どちらが風俗壊乱者かと皮肉っている。伊藤博文を好色男と呼び、狒々と罵るのは、我が滑稽新聞だけではないぞ、と他紙の報道も掲載している。

明治の世も平成の世も“政官エロヒヒオヤジ”がぞろぞろいたようだが、その様子を知りながら報じない報道機関は、明治時代にはなかったようだ。

↓明治36年8月20日の「滑稽新聞」の記事/明治好色一代男

↓明治36年9月5日の「滑稽新聞」の記事/明治好色一代男 大勲位伊藤侯爵

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという