ウオッチドッグでは、明治のジャーナリスト、宮武外骨が明治34年(1901年)に大阪で発行した「滑稽新聞」の報道を紹介している。少し期間が空いたが、前号の続きから書いていく。
時は日露戦争真っ只中の時代。大国ロシアの脅威に日本全体が緊張を強いられていた中、地元大阪で起きた水上警察署の署長による収賄の実態を、市民からの投書で掴んだ宮武外骨は、明治37年(1904年)第65号(1月25日発行)紙面で報道した。さらに、宮武外骨は報道しただけでなく、「至急、厳密な捜査をして、解決をしてほしい」という自筆の書面を、市民から届いた賄賂告発の投書と一緒に、大阪地方裁判所検事局へ提出した。この書面を提出した際の検事正の発言やりとりも報道した。
ところが、第65号の報道後、大阪府警察部から、第65号に掲載した記事の「取消申込書」が滑稽新聞社の元に届いた。外骨としては、事実無根であるというなら、検事局から「取消申込書」があるはずだがそれもないのに、警察部からこんなことを言ってくるのは妙であると、第66号で書いた。警察部の(記事)取消申込の文言の方が「事実無根」だろうと報道した。この報道の経緯はウオッチドッグでも紹介した。

大阪警察部から「(第65号記事)取消申込書」が滑稽新聞社に届いたため、それならと、大阪地方裁判所の手塚検事正との詳細なやりとりを第66号で報道した。
すると今度は、第66号の報道後、検事局から、第66号で記載された検事正の発言の一部が事実無根なので取り消せという公文書「取消申込書」が滑稽新聞社の元に届いた。そして、賄賂報道をした滑稽新聞社が「官吏侮辱罪」で起訴された。

第67号で、外骨は「自分が今回突然に拘禁の身(※裁判の結果により)にならないとはいえない。もしもそんなことがあっても、我が滑稽新聞は継続発行することにしているので、相変わらず愛読を願いたいです。初号以来の自分の筆鋒や意匠を愛されている皆さんの中には、(外骨)不在時の編集が気に入らないかもしれないが、そこは久しい間、ご贔屓に免じて、しばらく忍んでもらいましょう」と読者に向けて書いている。
ことの発端は、明治37年(1904年)時、大阪府水上警察署署長だった萩欽三警視がワイロを受け取ったことから始まる。萩警視が娘婿分を含め、大阪航運合資会社から高級二重マント(現在の価格で1着約50万円に相当)2着分(約100万円)を受け取った。市内各河川から尼崎までの貨物や客船の運送営業を出願した大阪航運合資会社が萩警視に賄賂を渡して便宜を図ったと滑稽新聞は報道した。

現在の高級なオーダーメイドのコートに近い二重マントは、紳士階級の象徴でもあったようだが、賄賂がバレてしまった萩警視は慌てて3日後に返却したことも滑稽新聞が報道した。

滑稽新聞の報道にいきりたったのが大阪府警察部。下図のいで立ちの警察官らが怒って、滑稽新聞社へ「取消申込書」を送ってきた。

次に、大阪地方裁判所検事局の検事正とのやりとりを詳細に報じたら、今度は大阪地方裁判所検事局から、滑稽新聞社へ「取消申込書」が届き、「官吏侮辱罪」で起訴された。

公権力の収賄を報道した新聞社が、公権力より訴えられるという明治時代のメディアの受難。明治のジャーナリスト宮武外骨はいかにして、いかついいで立ちの面々から受けた受難を読者にわかりやすく伝えたのか。外骨の報道で表現の妙を学びながら紹介する。裁判の結果はいかに…。
