明治35年3月11日の滑稽新聞・第24号では、滑稽新聞社が1年以上報道し、捜査当局に告発した、偽薬「毎月丸」事件の経過を伝えている。この問題は、司法の場に持ち込まれ、偽薬の現物が差し押さえされることになった。調査報道が当時の社会に影響を与えた一例だ。悪玉、しかも大物をターゲットに、紙面でしつこく追及するというのが宮武外骨の信条だった。

この問題を最初に取り上げたのは、明治34年2月25日の滑稽新聞・第2号。「呆れ売薬」という記事の中で、「ある種の売薬はその有効と軽便の2点において、遥かにやぶ医の治療に勝るものがある」としながら、「然れども」と続け、問題がある売薬業者と薬について逐一、紹介している。

滑稽新聞・第4号では、第2号で「呆れ売薬業者」と筆誅した丹平商会の森平衛が、滑稽新聞社へ広告掲載を依頼してきたことを記事にしている。編集者の宮武外骨は、それとはお構いなしに、「キメチンキ」という薬を「キメインチキ」に、「丹平商会」を「あかん平商会」に、それぞれ名称を変え、広告の形で掲載した。これについて森は「せっかく高い広告料を払ったのに益がない」と愚痴ったという。記事は「何べん言っても呆れた男だ」と怒りを隠さない。

その後も丹平商会は、詐欺広告の掲載を改める様子はなかったので、滑稽新聞は紙上でこの問題を度々、取り上げた。宮武外骨に言わせると「コンナ広告を出す新聞も新聞だが内務省も内務省だ、いずれも呆れた話」で、記事や広告などで批判を続けた。例えば、明治34年8月20日の滑稽新聞・第12号の滑稽広告では、毎月丸をパロディにして掲載している。「東洋第一之法螺」という見出しにし、毎月丸を「毎日丸」に、月経不順を「月給不順」にするなど、パロディ満載の広告となっている。

 

 

 

 

 

それでも懲りない詐欺師の跋扈に業を煮やしたのか、明治34年12月5日の滑稽新聞・第19号では、滑稽新聞社に「告発部」を設けると宣言している。そこで、最初に捜査当局に告発したのが「毎月丸」だった。

明治35年3月11日にようやく「毎月丸」事件の裁判が始まり、滑稽新聞社はその経過を記事にしている。最初にこの問題を報道してから1年以上が経っていた。法廷では裁判長が「職権で毎月丸を差し押さえる」と言い放ち、ただちに、原剤を差し押さえることになった。

また、被告側の森平兵衛の代理人が、公判前に法廷の隅で、宮武外骨を詰ったという話を記事にしている。代理人曰く「堕胎ウンネンの広告は、他にも多くあるだろう。丹平商会のみを告発するのはひどいじゃないか」と。それに宮武外骨がこう答えた。「先に、大頭より始めた。他は自ら絶滅するだろう」

さらに、この事件の人々の関心の高さなどにも触れ、詐欺広告を掲載していた新聞社にも影響を与えたことを余談として報道してる。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという