宮武外骨の手による「滑稽新聞」が創刊してから2年目となる、明治36年(1903年)1月。ウオッチドッグ記者が注目したのは、1月20日の第42号と、2月20日の第43号の「新年日記」だ。明治時代の新年の風景が描かれている。

原本通り、そのまま書き写そうと思ったが、何分、ウオッチドッグ記者も正月気分が抜けきれず、炬燵に入ったまま、グダグダして集中力が取り戻せない。すいませんね、外骨先生。ということで、お正月気分のまま滑稽新聞の記事を紹介する。物足りない方は、原本の記事を読みなされ。

外骨先生の正月は、こんな言葉から始まる。「予は他人の家へ行って新年おめでとうと言うたこともなく、又恭賀新年のはがき1枚書いたこともない。さりとて、家内では世間並に新年の祝いをするのである。今年も例の通り早起きして一家祝福の儀を表した」。

らしすぎるこの言葉の後に、日付を記した新年日記が始まる。要略して書くと・・。

明治36年1月1日 天王寺の博覧会の建築地を見学
「ヤング、ナインチン(※滑稽新聞社の社員)という若い少年を伴って、梅田駅から汽車で天王寺へ行って博覧会場の建築地を見ることにした。細君が『先生は酔うていられるから会計係はお前だよ』とヤングに予の懐中物を渡していたように覚えたから、余は無一文で出た」

ところがどっこい。梅田に着くと、ヤングはお金を持っていないという。「新年早々のシクジリ滑稽」。仕方がないから帰ろうかどうかと言っているところで、知人に遭遇した。お金を借りて、天王寺までの切符を買った。天王寺の博覧会場の建築地へ行ったが、別段見るほどのものもなかった。余興動物園で、白猿と黒虎を初めて見た。

なんだろう、余興動物園って?白猿?黒虎?

「面白いこともないので、腕車に乗って、自宅へ帰ったのが午後1時頃。年始客に接するのがイヤさに、2階で炬燵を抱いて夕刻まで醉臥した」という。

1月2日・3日 岡山まで汽車で漫遊旅行
汽車で腹痛を起したが、湯たんぽでどうにか持ち直しての観光を続けた。

1月4日 門松が倒されていた
「白昼堂々と談判に来ることのできぬ奴が夜間恨みを晴らすつもりでやった事であろう。その目的を達しさして置くがよい。門松は倒されても滑稽新聞は倒されない」と言って、車夫を呼んで片付けさせた。この日も2階に隠れて、各地のガラクタ新聞を見た後、酔臥した。

1月5日 滑稽倶楽部員の新年宴会
来会者は記者の知人。互いに例の滑稽悪口駄洒落など多かったが、酒がまわるにつれて、ソロソロ隠し芸とか隠さぬ芸とか始まり、本社社員の乱舞などあって、深夜12時過ぎに散会した。

1月6日 住吉神社へ参詣(記事中では5日。誤記?)
5人で住吉神社を参詣した。「玩具屋で、犬が交尾している図の焼物を2つ買った。これは、公然と売っているのであるから、警察本部へご参考として、ご提出致すつもりで2つ買ったのである」

たびたび、警察本部から、「風俗繚乱罪」で、滑稽新聞が発行停止にさせられているから、おちょくりのため「これこそが風俗繚乱」と参詣ついでに購入した犬の交尾の焼物を、警察本部へ提出するつもりか。

1月7日 警察本部保安課別室から滑稽新聞宛に書面が到着
書面は「貴社発行の滑稽新聞を購読したいので、本月発行分より、保安課まで送っていただきたい」という内容だった。

本社の官吏侮辱罪被告事件の起こった一因は、同保安課別室の迫害手段に基づいた点もあるから、今に癇癪虫が去らなかったので、
「滑稽新聞を購読したいなら、本屋でお買いなさいと言っておくれ。当社では、市内でも前金でなければ送本せぬ規定であるから、強いて注文したいならば前金を添えてお出でよ」と書面を持って来た小使いに言い渡すと、
小使いは、「本屋から買っていたそうですが、今年からは全て本社へ注文する事になったのであります。それは、本屋に売っていない新聞が多いからです云々。御社は前金でなければイカヌならこの状袋にその事を書いて下され」とのことゆえ、書き記してやった。すると、翌日、すぐに前金を持って来た。

不届きな記事を書いている新聞があるかどうかを全てチェックするため、各社の新聞を本社から購入する明治の警察本部の裏事情がわかる。

以上が、明治36年の宮武外骨の初七日のエピソード(要略)。
アイキャッチ画像は、明治36年1月の新年号で発行した広告写真。

滑稽新聞を発行した宮武外骨とは

ウイキペディアの「宮武外骨」から

宮武 外骨(みやたけ がいこつ、慶応3年1月18日(1867年2月22日) – 昭和30年(1955年)7月28日)は、日本のジャーナリスト(新聞記者、編集者)、著作家、新聞史研究家、江戸明治期の世相風俗研究家。

明治・大正期にはジャーナリストとして、政治家や官僚、行政機関、マスメディアを含めた権力の腐敗を言論により追及した。日本における言論の自由の確立を志向し、それを言論によって訴えた。また、活字によるアスキーアートを先駆的に取り入れた文章など、様々な趣向を凝らしたパロディや言葉遊びを執筆したことでも有名。関東大震災以降は風俗史研究に活動の重点を移し、東京帝国大学(東京大学)に明治新聞雑誌文庫を創設した。