宮武外骨の「滑稽新聞」は度々、当局から「発行停止」や「罰金」などの筆禍を受けた。滑稽新聞は紙面だけではなく、法廷で報道の正当性を訴えた。法廷で、筆禍を受けた滑稽新聞社を弁護した顧問弁護士たちは、当代一流の猛者ぞろいだった。
1985年に筑摩書房が発行した「滑稽新聞(壱)」208頁には、滑稽新聞社の顧問弁護士について、吉野孝雄氏が解説している。
野口茂平の事件を担当した弁護士は、野平穣氏、伊藤秀雄氏、日野國明氏の3人であった。
その1人、野平穣氏が常日頃、宮武外骨に忠告したという内容が「滑稽新聞」第17号に掲載されている。
野平穣弁護士が話した言葉を要約すると「滑稽新聞が勇ましい筆致で筆禍を受けるのは、勇者が戦場に行き、傷つくようなものだが、国法の範囲で勝たなきゃいけないよ。正当の手段で満足すべき判決を仰がないとだめだろう。当初の判決が不当なりというだけで、自己の意思を貫徹しようとするため、毎号、法官に反抗する記事を連載しては、硬骨なりとの公評を得ても、横道にそれたやり方だろう。正当なる手段、公明なる方法に訴えて、法官の心を動かすことを必勝の策とすべきだろう。滑稽記者の観点や思いは、世間は既に、知り尽くしている。猛省してくれ」
この弁護士の忠告を受けて、宮武外骨は「我輩の心機一転」という記事を掲載。「記者は、この忠言に接し翻然として醒覚する所あり。今日以後、将来の態度を一変し、法官に反抗の嫌ある記事は断然之を廃絶し以て氏の好意に報いん事を誓えり。之を諒せよ」と述べている。
~「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載予定~
参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという。