明治35年10月20日発行の滑稽新聞・第36号で、宮武外骨は、当時の滑稽新聞が置かれていた状況と思いを記事にしている。

滑稽新聞が庶民の間で人気を博すと、それを良からぬ感情で見ていた同業者などがあった。「賄賂を受け取っているのではないか」、「恐喝しているのではないか」というような憶測、中傷がはびこっていた中、大手新聞の記者が、宮武外骨に向かって「君は、蚤一つ出ただけで大騒ぎするだろう」と言ったという。小さなことを大きく騒ぎ立てる人物と揶揄されたようだ。
それを受けて、宮武外骨は「あ~そうだ。よくわかっているな。滑稽新聞は、記者の小心狭量が紙面に溢れているんだよ。記者の小心狭量を知る者が、滑稽新聞を知る者だ」と、歯切れのよい持論を展開している。

下記は、宮武外骨の記事をそのまま掲載しています。一部は、現代語に直しています。

滑稽新聞様     小野村夫(宮武外骨のペンネーム)

癪に触るとは滑稽記者の定文句であるが、実際、その癪に触ることが多いのである。それは、自己に少しの利害もなく痛痒も感じない社会の出来事についてすら、常に癪に触ってたまわらないという程の滑稽記者の性質ゆへ、自己に関係のある事を聞いて癪に触るというのは尤もの次第であると察したまへ。

たとえ内心は如何なる邪悪にせよ、今日の新聞雑誌界に立入り、多数の読者を得て、世間を益し、一社を持続せんとするには、仮にも悪事をなすべからず、他社の真似をなすべからず、これ成功の秘訣なり。結局、大利益なりとして起こりたる滑稽新聞に対して揣摩の憶測を下し、或いは為にする所あって中傷せんとするが如きは、愚俗にあらざれば、陋劣の甚だしきものである。

己が金銭の奴隷となりて、現ナマ次第で職務を左右している者共の目から見れば、本誌の記事は、一々裏面に曰く因縁のある事と思うであろう。また、己が賄賂や脅喝で筆先を左右している奴等の目から見れば、本社の一挙一動にも疑念が起るだろう。また、痛酷に攻撃されている連中は、何とかして悪名をつけんとする卑劣心も出るであろう。毎月丸の堕胎一件を告発すれば、丹平商会は脅喝に応じなかったと見えるとか、岡部廣の罪悪を並べ立てれば、他の同業会社から賄賂を貰うたのだろう、なぞ邪推されることは度々である。

眼光紙背に徹すとまでは行かずとも、いやしくも、理性あり常識ある読者ならば、一部の滑稽新聞を通読するだけでも、記者の心事を想像することができるはず。

滑稽記者は、小心翼々である。狭量不貸である。その筆は、過激痛酷である。小心なればこそ、かかる記事を編集するなれ。狭量なればこそ、かかる新聞を起したるなれ。過激なればこそ幾分の効を奏しつつあるなれ。

大阪朝日新聞の文芸記者角田浩々という男がかつて予に、
「君は手紙を郵便箱に投げ入れてニ三間立ち去った時、ふり向いて郵便箱を見るであろう。また、一匹の蚤でも喰いついたならば、家内総出に騒がしても殺さぬ内は眠れぬであろう云々」
と言うたが、実によく穿った評である。滑稽記者の小心狭量が紙面に溢れている証拠である。

記者の小心狭量を知る者は、滑稽新聞を知る者。滑稽新聞を知る者はその内事を想像し得る者である。若し記者の小心狭量を改めよと言う者あらば即ち滑稽新聞の主義を変ぜよと言うに同じである。記者の小心狭量を知らざる俗流濁流の輩が記者を疑うなりと思へば、強ち弁疏するにも足らざるべきに似たれど、ソコが記者の小心狭量、癪に触ると言う七赤男の本性と知り給へ。

※アイキャッチの画像の建物は、明治に建設された大阪市中央公会堂です。記事に直接関係はありません。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという