明治のジャーナリスト宮武外骨は、1903年(明治36年)2月20日付の「滑稽新聞」第43号で、同年3月から開催予定の内国勧業博覧会にあわせて建立された大阪・四天王寺の大釣鐘(157.5tの巨大釣鐘)が、鋳造失敗で破壊されているという事実をスクープした。

当時の滑稽新聞のスクープ報道を掲載する。
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滑稽新聞は、明治35年11月発行の第38号で、「ドーセ、ロクな音はしまい」とか、「破れ鍋を敲くようにビーンというであろう」など書いたが、やはり、大釣鐘は、外形を幾分取り出したら、見事にも破れ目を現したということだ。これには、関係者一同が仰天したが、今さら、どうすることもできない。一同、このことを秘密にしたということだ。

こうした大釣鐘の破壊の噂があったので、本社の社員に、現地を調査させた。調査した社員の話では、まさしく噂に間違いはなかった。巨大な大釣鐘は、改鋳しなければ、何の用もなさない廃物になるだろう。(調査当日のことではあるが、多くの人から見られるのを防ごうと、工事の者が、破れ目に金屑を埋めていた)

その破壊の原因はまだわからないが、察するに理学思想の薄弱なる設計者が、金属と土石との膨張収縮の度合いが異なることを知らずに、みだりに鋳型を製したことが原因で、本鐘冷縮の際、内部のレンガ石鋳型が堅固にして、収縮の度が少なかったために、遂に破裂する至ったのではないか。

しかし、例の「大阪朝日新聞」は、寺の関係者から頼まれて、こうした事実を捻じ曲げて報道をした。大阪朝日新聞の記事によると、「過日、鋳造した四天王寺の聖徳鐘は、とにかく、世界第一というべき大梵鐘で、実際の状況はどのようなものかと、その後の様子を聞くと、至極、好結果に出来上がって、7段まで積み重ねていた外型を5段まで取り外した。『聖徳皇太子頌徳鐘』の文字を始めとして、年月日等も鮮明に鋳あげた。もっとも、この梵鐘は、都合上、博覧会の会期中は引き上げず、現在のまま(地中のまま)、諸人に縦覧させるため、地中にトンネルを設け、観覧者は北より西へ抜け出るようにする。博覧会の閉場と共に引き上げ、状況によっては、鐘楼も建設して吊り上げることにするという」

この大阪朝日新聞の記事で実情がよくわかるだろう。「都合上、博覧会期間中は引き上げず、閉場と共に引き上げ云々」とは、奇怪至極のこと。世界無二の大釣鐘と称し、博覧会開設を機として企画し、既に鋳造ができたのに、都合上、引き上げないという理由は何だ、とは心眼のある読者の脳裏に浮かぶ疑問だ。

この破壊物を引き上げては、人気喪失になり、多数の博覧会見物人を天王寺内に引き寄せることが難しくなる。そうなると、喜捨の賽銭も少なくなるという思惑で、この大失敗を隠蔽して、博覧会閉場の後に引き上げ、その際、初めて破壊に驚くの偽装を作らんとする欺瞞策だ。関係者一同は、元来、邪欲のためにする所、あえて、これを深く咎めるようなことはないとしても、いやしくも、新聞記者たる者が、頼まれたからと、厳然たる事実を曲げるとは、その卑劣さは情けないことだ。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという