明治のジャーナリスト宮武外骨が、明治36年2月に滑稽新聞で「大釣鐘破壊」のスクープ報道をしたが、大阪朝日新聞だけは、「大釣鐘は一点の疵を見ず、鋳造の成績十分は良好なり。鋳造後、2週間以内に(大釣鐘)を引き揚げるはず」という報道を続けていた。外骨はこれを強く批判。「一名の派遣記者もいない滑稽新聞社と、すぐれた眼力を持っていると自ら誇って派遣記者が多い朝日新聞では、社会の信用度では大きく違うと思うが、本誌記者は自ら調べたことから、初回の記事(大釣鐘破壊)をその後も反復した。そして、論より証拠、博覧会の閉場後に大釣鐘を引き揚げるというのだから、その時にどちらが正しいかわかるだろう」と報道した。

しかし、大阪博覧会の閉会後も大釣鐘は引き揚げられなかった。外骨は批判の矛先を、大釣鐘を管理する天王寺にも向けた。「寺の坊主どもは、地上に引き揚げる計画をしないだけでなく、観覧料を三銭に値下げして、相変わらず不浄財を貪りつつある。賄賂新聞の陋劣、売主坊主の厚顔は今さらだけど、その行動は曖昧で、憐然の対極にある」と、明治36年8月5日付滑稽新聞・第54号の記事で憤りを露わにしている。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという