明治のジャーナリスト宮武外骨は、明治37年(1904年)1月25日付の滑稽新聞で大阪府水上警察署の警察署長が船運会社から賄賂を受け取ったという報道をした。その報道がきっかけで、大阪警察部(当時)、大阪地方裁判所(当時)から、官吏侮辱罪で起訴された。

明治時代は現代のような言論の自由はなく、官吏に不都合なことを報道をしたら、罰金や禁錮刑が科せられた。当時の新聞記者が置かれていた様子をウオッチドッグでも紹介したことがある。

【明治の調査報道】記者vs内務省官僚/バトルの8年間/宮武外骨「滑稽新聞」№51 – ウオッチドッグ

報じる側が絶対的に不利な時代背景の中、宮武外骨は庶民を味方につけるため、赤裸々に言論弾圧の状況を滑稽新聞で報道した。難しい文字が読めない人にもわかりやすく、面白く漫画などをふんだんに使いながら不条理な社会を浮き彫りにした。

滑稽新聞第65号の記事について、当初1カ月半の禁錮刑の判決だったが、判決後もさらに追及報道をしたため、第69号の記事で禁錮6カ月の刑を言い渡された。明治37年5月7日付・滑稽新聞第72号で、第65号の禁錮1カ月半の上告を取消して、服役を決意した理由を述べている。

「私が今回突然入獄することを決心したのは誰1人にも相談しなかったが、前号(71号)発行後、弁護士の野平讓氏、白川朋吉氏の両氏が自分にこう言った。『今回1か月半刑の上告を取り消して入獄し、6カ月刑のほうは控訴を維持したほうがよい。君は減刑を望まないだろうが、それでも公廷で新証人数名の呼び出しを請求し、萩欽三(※署長)の収賄事実を証明してたっぷりして、いわゆる、思う存分に、罵倒をやればこれもまた面白いじゃないか。また赭衣(※罪人の赤い服)を着た君が公廷に立って、あらゆる俗吏共の悪事を摘発する実情を公衆に示すのもまたいくばくかの実益であろう云々・・』と言っていたので、自分は弁護士の言葉に従うことにした」

服役を決意した宮武外骨は、親しい知人らを呼んで「入獄送別会」を開き、その宴会の模様を滑稽新聞紙上で面白おかしく書いた。さらに、「滑稽記者入獄記念碑」という「記念碑」の絵を、紙面一杯に描いた。記念碑の画像下には「この記念碑は滑稽新聞が継続する限り毎号掲載する」という一文を書いた。

肉体的な迫害を受ける自分の姿を面白おかしく、そして執拗に書く。「権力」を「笑い」に変えて精神的な迫害を無力化する方法をとることで庶民の喝采を得た。このやり方が滑稽新聞の真骨頂だった。

滑稽記者 入獄記念碑(骸骨マークは外骨の名前を模している)

大宴会の「滑稽記者 入獄送別会」