宮武外骨の滑稽新聞は1901年(明治34年)に発刊し、8年間続いた。地方行政を傘下に治めていた内務省官僚とのバトルの歴史だった。

当時の内務省は、現在でいうところの、地方自治体、総務省、警察庁、国土交通省、厚労省を総合したようなものか。中央集権制度の中核的国家機関だった。

コトバンク:内務省

1873年 11月 10日警察および地方行政の監督,ならびに国民生活全般の事項を統轄するために設けられた行政機関。初代内務卿大久保利通の考えを反映し,発足当初から国民生活に関する強度の監視を課題としており,単なる行政事務の枠にとどまるものではなかった。 85年内閣制度発足に伴い機構改革がはかられ,官房と総務,県治,警保,土木,地理,戸籍,社寺,衛生,会計の9局を統合する中央集権制の中核的国家機関として確立された。北海道庁長官,各府県知事を監督し,内務省警保局,警視庁,府県警察部を通じて言論,集会,結社を取締り,選挙運動,社会運動,労働運動などに干渉や弾圧を加えるなど,地方制度および国民生活全般にわたって強力な統制を行なった。第2次世界大戦後,地方自治確立の要請と,中央集権制度の中枢的存在であったとの理由から,1947年 12月 31日廃省になった。
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当時は、内務省の検閲官が新聞の検閲を行った。検閲官により、讒謗律や、新聞紙条例の違反とされた新聞社の社主、編集者、印刷者は、罰金や禁固刑、禁獄刑などの処分を受けた。

コトバンク:検閲
思想・表現の公表(文書,写真,映画,放送など)に際し,公権力をはじめ社会的に力をもつ個人や団体がその内容を検査し,不適当と判断した場合に規制を加える(発売・上映等の禁止,変更,削除など)こと。事前検閲と事後検閲とがあるが,一般には前者をさす。近代検閲の歴史は活版印刷など大量の複製技術の成立とともに始まる。日本では明治維新直後の1869年に出版条例が,1875年に新聞紙条例が制定されている。それが明治憲法下でそれぞれ出版法(1893),新聞紙法(1909)として整備・強化され,1917年には映画検閲を目的とした活動写真興行取締規則が警視庁から公布されている。戦時下には言論・出版・集会・結社等臨時取締法(1941年)なども加わり,とりわけ厳重であった。戦後の現行憲法は明文で禁止している(日本国憲法第21条)。
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宮武外骨が滑稽新聞を発行していた時期は、新聞紙条例(明治8年6月)が制定されてから、30年ほど経った時期で、その時分には、かつて自由民権運動を巻き起こした旧幕臣ジャーナリストがどんどんいなくなっていた。

宮武外骨は、1908年(明治41年)に「滑稽新聞」を廃刊したが、その3年後に「筆禍史」を編纂している。この筆禍史には、1875年(明治8年)6月の新聞紙条例が制定された後、筆禍にあった新聞社と記者の名が記載されている。ウオッチドッグ記者は、宮武外骨が編纂した「筆禍史」の明治の部分を、データとして写し始めた。1枚を仕上げた後、気になった名前を見つけた。ちなみに、このデータは一部に過ぎない。

朝野新聞の「成島柳北」の名前があった。ウィキペディアの宮武外骨に、若かりし頃の外骨が「朝野新聞」の成島柳北を憧れたと書いてあったのを思い出した。

朝野新聞は、讒謗律と新聞紙条例が制定されてから最初の筆禍にあった記者、末広重恭と、成島柳北が筆をふるった。末広は、讒謗律と新聞紙条例を非難して処罰されたという。1876年(明治9年)2月に、この2人は、讒謗律と新聞紙条例の制定者、井上毅尾崎三良を紙上で茶化したため、末広は官吏侮辱罪で、禁獄8か月と150円の罰金(現在の貨幣価値で300万円)、成島は、禁獄4か月で罰金100円(現在の貨幣価値で200万円)の処分を受けた。

コトバンク:朝野新聞
1874年(明治7)9月24日『公文通誌』(1872創刊)を改題して発行された東京の日刊紙。当代一流の文人成島柳北(なるしまりゅうほく)が主宰し、初めて論説欄を設けた。この新聞が人気を集めたのは、政界や社会を風刺した柳北の洒脱(しゃだつ)な文章で、とくにその雑録は有名である。75年6月28日、讒謗律(ざんぼうりつ)、新聞紙条例が布告され、記者に対する取締りが厳しくなったとき、蘇軾(そしょく)(東坡(とうば))の「赤壁賦(せきへきのふ)」をもじって掲載(8月17日)した「辟易(へきえき)賦」は世人の喝采(かっさい)を博した。10月、末広鉄腸(てっちょう)が入社、論説を担当、以後硬軟取り混ぜた両者の筆によって人気をよび、政論新聞中随一の発行部数を誇った。しかし78年5月15日、大久保利通(としみち)暗殺の報道と斬奸(ざんかん)状掲載が当局ににらまれ、日刊紙初の発行停止処分を受けた。その後も国会開設、憲法制定、政府の言論取締り批判など民権派新聞として論陣を張った。84年11月成島が死ぬと、犬養毅(いぬかいつよし)、尾崎行雄、町田忠治らが入社、改進党系の新聞になり、89年末広も退社、衰退の一途をたどる。その後、渡辺治(おさむ)、波多野承五郎が社長となり、犬養らも退社、大成会、国民協会の機関紙の色彩を呈したが、内紛絶えず、93年12月廃刊する。同名の新聞がその後も出ている。[春原昭彦]
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注釈:末広鉄腸は、末広重恭のこと。

成島柳北や末広重恭は、出獄後に、獄中話を連載した。さらに、「1876年6月末、浅草観音堂で各社が共催した『新聞供養大施餓鬼』では、柳北が『新聞紙を祭る文』を読み上げ紙上に掲載し、政府の言論弾圧をからかった」という。明治初期は、江戸文化の流れを汲む洒落の感覚があふれていたようだ。

政府の言論弾圧は、日露戦争後にさらに強まった。1908年(明治41年)に新聞紙条例を廃止し、新聞紙法を制定した。統制強化の改悪だったという。情報統制が厳しさを増しつつあった明治の後半期に、ジャーナリスト宮武外骨は、絶対的権力を持っていた内務省の官僚らを、どう筆誅したのか。ウオッチドッグは、歴史を振り返り、その軌跡を少しずつ追っていく。

コトバンク:新聞紙法
明治 42年法律 41号。明治末期から第2次世界大戦敗戦までの長期間,日本の新聞の自由を奪っていた言論弾圧法規。公布は 1909年4月 30日で,同時に旧来の新聞紙条例を廃止したものであるが,内容的にはその改悪であるといえる。すなわち発行保証金は倍額にふやされ,1897年いったん廃止されていた行政処分による発行禁止,停止条項が復活した。そしてその後何度か改正の試みはあったが実現せず,言論,報道の自由をきびしく弾圧した。この弾圧が解けたのは,敗戦後に占領進駐してきた連合国総司令部 GHQが,1945年9月 29日「新聞並びに言論の自由に関する新たなる措置」という指令を出し,新聞紙法など 12の法令の撤廃措置を日本政府に命令してからである。ただし実際の法文の廃止は 49年5月。
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↓フランス人ビゴーの風刺画
左は警官、右は新聞記者。明治政府の弾圧の様子を風刺している。