明治34年(1901年)1月から発行した「滑稽新聞」は、宮武外骨がこだわった滑稽の妙味が詰め込まれた新聞だった。しかし、当時、「それが滑稽か」と非難する面々がいたようだ。その非難に対して、明治35年(1902年)11月1日発行の第37号の滑稽新聞で、一休和尚、曽呂利、平賀源内の3人が用いた「滑稽」を取り上げ、反論している。

3人のうち一休和尚は、室町時代の臨済宗大徳寺派の僧で、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、禅宗の教義における風狂の精神を表した。また、曽呂利は、豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物で、落語家の始祖と言われている。3人目の平賀源内は、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家などで名高い。宮武外骨は3人の中でも特に、平賀源内に傾倒していた。

「本誌は時勢に感ずる所があって平賀源内の嘲罵的滑稽に倣うているのだ」と平賀源内の「滑稽」を受け継いだとしている。宮武外骨は滑稽新聞紙上で、平賀源内を自称し、自身に「明治源内」とあだ名をつけるほど心酔していた。読者や知人が外骨を「明源先生」と呼ぶようになり、「明治源内」の名は浸透していた。外骨は平賀源内の嘲罵的滑稽に倣い、独自のスタイルを組み込みながら、明治のメディア界で新境地を開いた。

下記は、宮武外骨が「滑稽」を解説した記事をそのまま掲載しています。

滑稽新聞様(六)  小野村夫(宮武外骨のペンネーム) 

一つ癪に触ることがある。それは、滑稽の字義も解せず、滑稽の神髄も知らぬ癖に、本誌を非難して是は滑稽ではない、悪口だ、真面目だと言う奴のことである。

滑稽と言えば落語地口情歌川柳の様なことのみを思うている連中が多い。高尚な審美心や「物の本」を読んだことのない奴らがそう思うのは無理もないが、大体落語や地口などは滑稽の一部分であるが、極めて下等、極めて幼稚の滑稽である。

團團珍聞などは、今にこの種の滑稽を主としているから、時勢は最早、彼を歓迎しなくなったので、近年は芸妓の品評や履歴を巻頭にかけて、微かに余命を繋いでいる。象人法の滑稽画なども地口駄洒落を画にしたものであるから感服すべき妙味のあるものは少ない。(象人法とは、人に象る法とて鳥や獣に人間の衣服を着せたり、器物に目口や手足をつけたものを言うのだが西洋でも初等の滑稽としてある)

真の滑稽とは一休和尚が深玄の禅理を示すに用いた滑稽、曽呂利が豊公に侍して諸侯の調和を計るに用いた滑稽、平賀源内が時弊を嘲罵するに用いた滑稽のようなものを言うのである。
本誌は時勢に感ずる所があって平賀源内の嘲罵的滑稽に倣うているのだ。

團珍は落語家的の滑稽主義、本誌は慨世的の滑稽主義である。すべて物事には実用と弄用の二つあるが、團珍は滑稽の弄用、本誌は滑稽の実用である。
滑利智稽という字義からいえば、いづれも滑稽雑誌に相違ないが、其の用、其の主義が異なっている。其の用、其の主義が異なっている物を見て、彼是と非難するのは、平賀源内の所謂「糞たわけ」の骨頂である。

また、本誌に真面目の事実、真面目の記述があるので、羊頭を掲げて狗肉を売るとか、滑稽なら滑稽らしきものを書けと言う奴もあるが、これも平賀源内の著書を読んだことがない連中の戯言である。源内の著書を見れば、真面目の事実は事実として記述し、これに嘲罵の論評を加えたものが多い。

日刊の新聞に古い講談を掲げたり、実業の雑誌に小説や俳句を載せているこそ、名実相違の「たわけ」者なれ。滑稽新聞に真面目の記事あればとて、平常掲げている滑稽記事の参考、例証であれば、新聞の講談や実業の俳句のような全く無関係な事とは言えまい。

この事理を解せずして、みだりに非難する「たわけ」連中に告げんがために本誌第十一号に、「それが面白くなければ購読するな。何もこちらから頭を下げて頼んだ訳じゃなし。自分の好きで毎号買うてみて、彼是とわからぬ小言を言うのは大体、気がしれぬ話だ。そんな奴は、自今、滑稽新聞を買うなかれ。本屋もそんな奴に売るなかれ」と書いた。滑稽新聞は、狗肉ではない。羊犬の皮肉である。

宮武外骨が「深玄の禅理を示す滑稽を用いた」と紹介した「一休和尚」とは・・
一休宗純(いっきゅうそうじゅん)
室町時代の臨済宗大徳寺派の僧、詩人。説話のモデルとしても知られる。

一見奇抜な言動は、中国臨済宗の僧・普化など唐代の禅者に通じ、禅宗の教義における風狂の精神の表れとされる。同時に、こうした行動を通して、当時の仏教の権威や形骸化を批判・風刺し、仏教の伝統化や風化に警鐘を鳴らしていたと解釈されている。彼の禅風は、直筆の法語『七仏通誡偈』が残されていることからも伺える。
このような戒律や形式に囚われない人間臭い生き方は、民衆の共感を呼んだ。江戸時代には、彼をモデルとした『一休咄』に代表される頓知咄(とんちばなし)を生み出す元となった。(ウィキペディアより)

宮武外骨が「諸侯の調和を計る滑稽を用いた」と紹介した「曽呂利」とは・・
曽呂利 新左衛門(そろり しんざえもん)は、落語家の名跡。

豊臣秀吉に御伽衆として仕えたといわれる人物。落語家の始祖とも言われ、ユーモラスな頓知で人を笑わせる数々の逸話を残した。元々、堺で刀の鞘を作っていて、その鞘には刀がそろりと合うのでこの名がついたという(『堺鑑』)。架空の人物と言う説や、実在したが逸話は後世の創作という説がある。また、茶人で落語家の祖とされる安楽庵策伝と同一人物とも言われる。(ウィキペディアより)

宮武外骨が「時弊を嘲罵する滑稽を用いた」と紹介した「平賀源内」とは・・
平賀 源内(ひらが げんない)は、江戸時代中頃の人物。

本草学者、地質学者、蘭学者、医者、殖産事業家、戯作者、浄瑠璃作者、俳人、蘭画家、発明家として知られる。
天才、または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で、蘭学者として油絵や鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。また源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。(ウィキペディアより)

※アイキャッチ画像は、明治に建設され現存している建物と外骨の似顔絵をコラボしています。建物は、記事と直接、関係はありません。
◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという