日露戦争後の緊急勅令で、滑稽新聞の号外が明治38年9月13日、発行停止と発売禁止になった。約2ヶ月後の11月30日に勅令は廃止となり、宮武外骨は12月1日に「号外」と「104号」の再発売に踏み切った。しかし、滑稽新聞の再発売を面白く思っていなかった大阪府庁の警察官吏が、すぐさま「行政上の命令」として再発売していた滑稽新聞を差押えた。外骨は「空前奇聞 不法の行政」というタイトルをつけ、明治39年1月1日発行の滑稽新聞で、一連の騒動を報道している。

一部をそのまま掲載する。
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世に小癪に障ることはたくさんあるが、警察の俗吏共が法令を曲げて彼是とコセツクほど、小癪に障ることはない。我社が緊急勅令の廃止になった翌日、かつて発売を禁止された本誌の号外と第104号とを公然発売しているのを見て、大阪府の警察吏共は、何とかして制裁を加へる法条は無いものかと、検事局へ相談してみてもその効は無かったので、終には知事はじめ警察吏共寄り合っての協議。
その協議の結果は、

緊急勅令は廃止になったのだから、その発売禁止の命令を犯して今日公然発売していても、消滅した同令でこれを罰することは出来ないにしても、前日内務大臣が「その発売頒布を押さえろ」といった行政上の命令は、同令廃止のために消滅したものではないのだから、その残本のある限りを差し押さえる事にすればよい。如何に抗議を唱えるとも、行政上の処分というを盾にして、強制執行をやってもよい。

という決議で、我社はじめ各販売店へ巡査を派遣して残本を差し押さえた。
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外骨は、「緊急勅令廃止の結果、司法上の処分は消滅しても、行政上の処分は消滅しないというような理由はない。勅令によった命令の執行であるから、同令が廃止になれば、それと同時に消滅するものである。消滅した法令によって行政処分を加えるという事は、所謂、不法の越権行為だ」と断じている。

「知事の高崎親章はじめ警察吏どもは、みな巡査上がりの者ばかりで、ろくに物の本を読んだことのない連中のみで、法律思想などはゼロであるから、こんな間違った事をして恥じないのであろう」と批判。

さらに続けて「これも前例があれば、騒ぐこともなかったろうが、発売禁止になったものを、公然、発売したのは、開闢以来我社が初めてであって、所謂、空前の珍事であるから驚いたのであろうが、つまりは、こんな乱暴な法令を俄かにこしらえて、俄かに廃止したから、こんな珍事を生み出し、こんな不法な行政処分なども起こったのである。桂内閣という奴は、いろいろな罪を造ったものじゃないか」と憤慨している。

最後に、「右の理由であるから、今日尚、残本を持っている者は、公然と平気で売買をしたまえ」と読者に、差し押さえられた「号外」と「104号」の売買を勧めている。

高崎親章(ウィキペディアより)
内務省警視庁に入庁。初任は警部補。地方官を歴任し、1892年11月内務省警保局長。その後は知事を歴任。茨城県(1893年3月 – 1896年2月)、長野県(1896年2月6日 – 1897年4月7日)、岡山県(1897年7月7日 – 1900年1月19日)、宮城県(1900年1月19日 – 3月19日)、京都府(1900年3月 – 1902年2月)、大阪府(1902年2月8日 – 1911年9月4日)でそれぞれ知事を務めた。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという