明治のジャーナリスト、宮武外骨は、自身が主筆として発行していた「滑稽新聞」紙上で、しつこく大阪府水上警察署の萩欽三署長(当時)の収賄を報道した。そのうち、第65号と第69号で官吏侮辱罪の判決を受けた。第65号の判決で入獄した外骨は、第69号の控訴審の公判に出廷。その結果、禁錮刑の刑期が半年から3カ月の判決となった。明治37年5月7日に入獄して、8月5日に出獄した。

「滑稽新聞」の社員らは、宮武外骨が入獄した後も新聞の発行を続けた。特に、読者に人気の高い外骨の入獄中の様子やいつ出獄するのかを「漫画」で表現した。滑稽新聞には、外骨の編集方針通りの表現ができる画家がいて、その時々の社会を風刺や漫画で表現した。この漫画が、外骨の鋭い筆致と上手く合わさり、怒りを笑いに変えた。鋭い怒りの筆致でも笑いを含めることで、庶民の共感を得て、滑稽新聞を応援する読者を増やした。とことん、庶民にわかりやすい新聞を作った。これが「滑稽」というタイトル文字を使った滑稽新聞の真骨頂だった。

「村夫子(宮武外骨のペンネーム)の登獄」というタイトルで、山に見立てて刑期を表した。
「村夫子の獄中作業」として、獄中でニコニコしながら櫛を磨く作業をしている様子を表現した。
「村夫子の商売変更」として、獄中作業が櫛から鼻緒縫いに変わったことを表現した。
「村夫子の下山」として、頂点の8月(刑期短縮)で出獄した様子を表現した。

「入獄送別会」のパロディを広告蘭に

宮武外骨は、入獄する前に、顧問弁護士や親しい友人らを招待して「入獄送別会」という会を開き、その宴会の模様を「滑稽新聞・第72号」で報道した。余興や笑いがいっぱいの内容で悲壮感ゼロの入獄送別会だった。

滑稽記者「入獄送別会」

外骨が友人らと開いた「入獄送別会」の模様を報じた「滑稽新聞・第72号」の裏表紙は、「入獄送別会」のパロディだった。

広告として、「小野村夫子入獄祝賀会」という案内状を、収賄署長の萩欽三が発起人として出したことにしている。賛成者の氏名は、かつて滑稽新聞が偽薬販売で追及した大阪市議の野口茂平を筆頭に、詐欺師や、大阪府知事、大阪市長、汚職警官など滑稽新聞で散々汚職などを取り上げた面々の名前がずらりと並んでいた。読者はこの名前を見て、あの時書かれたあいつが・・と笑いに包まれる。自身の入獄前に、鋭さと笑いを入り交えた絶妙な紙面を作りあげた明治の記者の強靭な精神に学ぶことがたくさんある。

パロディ広告:小野村夫子(外骨のペンネーム)入獄祝賀会/発起人 大阪府警視 萩欽三

「明治のメディア受難」として、明治37年の滑稽新聞の収賄報道を紹介したが、ひと区切りする。出獄した後も、宮武外骨は変わらず「滑稽新聞」を発行し筆誅を続けた。しかし、社会がより厳しく苛烈にどんどん変わっていくことになる。次回は、廃刊に至るまでの滑稽新聞の報道を紹介する。つづきはまた・・・。