明治のジャーナリストの宮武外骨が、四天王寺の大釣鐘破壊の報道を続けていたちょうどその時期の明治37年2月に、日露戦争が始まった。滑稽新聞では、開戦1ヵ月後に「世界無二の大砲」と題して、四天王寺の大釣鐘を「釣らぬ鐘、突かぬ鐘を利用して征露軍備の大砲とし、天王寺の要塞銭の用に供す」と、とことん四天王寺の大釣鐘を茶化す風刺画を掲載した。大砲の大きさを示すくだりでは、「鋳造の成績の十分良好なことは、大阪朝日新聞が保証する」と、寺の発表報道を続けた大阪朝日新聞に対する皮肉交じりのコメントもつけている。

この風刺画を書いた背景を紹介する「天王寺の破鐘」と題した記事も掲載。四天王寺が破鐘の扱いに困り、内々に檀家総代に泣きついたエピソードを盛り込んでいる。寺から総代へ「造幣局へ改鋳を委託するから、その改鋳費の喜捨金を募集してもらいたい」と依頼したが、総代は誰1人として応じなかったという。寺としては、仕方がないので、「割れていても世界無二の大鐘だ、これを磨き上げて置き物にしても見事なものだ」と置鐘とすることに決めたので、引き揚げにとりかかっていると報じた。

釣りもせず、突きもしない大釣鐘を只の置き物としたら、永代万人の笑い草を残すことになり、四天王寺の大恥辱だから、何とかこれを処分する妙案はないものかと、滑稽新聞の社員らが大釣鐘の用途について話し合ったと書いている。その話し合いで、「(大釣鐘の)上部に穴が空いているのは幸いだから、この際、征露軍の用に供したなら、国家の大利益となる」という案が出たとしている。

四天王寺が滑稽新聞のこの妙案を受け入れ、大釣鐘を大砲にしたなら、旅順の敵塞を砲撃することは出来なくても、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞と結託し、「軍事費募集」と名付けて、善男善女の寄付金を貪ることぐらいはできるだろうよと、痛烈な皮肉で記事を締めくくっている。

 

日露戦争(ウィキペディアより)
1904年(明治37年)2月8日 – 1905年(明治38年)9月5日)は、大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島とロシア主権下の満洲南部と、日本海を主戦場として発生した戦争である。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという