宮武外骨の一連の「詐欺師 野口茂平」の報道は真実だったのか?

当時の報道から117年経った今、検証してみる。
明治時代の大阪で発行部数がナンバーワンだった大阪朝日新聞の明治34年10月以降の新聞を、滋賀県立図書館で調べた。判読不明の箇所がいくつもある古い古い新聞紙をまとめたマイクロフィルム。

すると、明治34年11月26日付の大阪朝日新聞に、滑稽新聞社の広告が出ていた。滑稽新聞社も、大阪朝日新聞に広告を出していたことが判明。滑稽新聞社第18号の広告には「野口茂平の誹毀事件・肺労散服用者の参考」の見出しが掲載していた。

↓明治34年11月26日付の大阪朝日新聞の広告欄/滑稽新聞 第18号の広告

宮武外骨は、明治34年11月26日付の大阪朝日新聞の広告面で「滑稽新聞・第18号」の広告を掲載した。その直後の12月5日に、詐欺被害にあった肺労散服用者の家族の声を取り上げたハガキを、「滑稽新聞・第19号」で掲載した。

肺労散服用者のその後を記した「滑稽新聞・第19号」の報道が出た後、大阪市会議員であり薬屋の野口茂平は、滑稽新聞社に対抗するかのような巨大広告を、12月19日付の大阪朝日新聞の広告欄に掲載した。滑稽新聞社の広告スペースの約6倍以上もあり、肺労散の紹介文を長々と一面に掲載している。

↓明治34年12月19日付大阪朝日新聞の広告欄/野口茂平の「肺労散」宣伝
宮武外骨がずっと批判していた通り、紙面には「肺病には西洋医者に妙薬なし」の巨大文字があった。滑稽新聞社の一連の報道に対抗するため、「滑稽新聞・第20号」発売日の前日19日に、「これでもくらえ」というような肺労散喧伝の広告が掲載となっていた。

宮武外骨は、読者を騙す詐欺広告を平然と掲載している大手新聞社の体質も批判していた。「効能なし」とあちらこちらで批判を受けていた野口茂平の肺労散の巨大広告をそのまま掲載した、当時の大手新聞社の見識のなさも浮き彫りになった。

偽薬の詐欺被害にあった人たちの無念の声を聞き、詐欺師を追及し真実を報道したのは、宮武外骨の「滑稽新聞」。117年後の今だからこそ、当時のメディアの状況と真実の報道を貫く重要さがより鮮明となった。デタラメや詐欺行為は、時間がかかっても必ず白日のもとに晒される。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという。