明治のジャーナリスト宮武外骨が、滑稽新聞の紙上で、「破鐘」、「大釣金儲」と6年間も批判し続けた四天王寺の大釣鐘の問題は、その後どうなったのか。
鋳造から約35年後の1938年(昭和13年)9月15日付の朝日新聞の紙面に、興味深い記事があった。「大阪四天王寺の鐘は何故鳴らないのか」というタイトルの記事。鳴らない原因として、「少しヒビが入っている。材料に不純物が多かったのだろう」という一文があった。まさに、宮武外骨がスクープ報道した通りだった。
参照記事:【調査報道の源流】大釣鐘の鋳造失敗をスクープ/現地調査で確認/宮武外骨「滑稽新聞」№25
しかし、明治の大阪朝日新聞は「鋳造の成績十分良し」と書き、鐘が割れていることを認めず、寺の提灯持ちを続けた。宮武外骨は、こうした事実を報じないメディアの姿勢も徹底批判していた。朝日新聞は、明治の大阪朝日新聞の報道から35年後に、ようやく事実を報じたということになる。
参照記事:【調査報道の源流】大阪朝日と天王寺を批判/引き揚げない大釣鐘めぐり/宮武外骨「滑稽新聞」№33
長い沈黙を破って1938年(昭和13年)に、大釣鐘が再び脚光を浴びたのは、戦時下の金属不足から、四天王寺が「鳴らぬ釣鐘」を国家に献納することにしたことからだ。1938年は、国家総動員法の公布により、本格的戦時体制が確立した年。
一方、宮武外骨が大釣鐘の批判記事を書いていた1904年(明治37年)は、日露戦争が始まった年。1904年3月の滑稽新聞の報道では、「突きもしない大釣鐘を只の置き物としたら、永代万人の笑い草を残すことになり、四天王寺の大恥辱だから、何とかこれを処分する妙案はないものかと、滑稽新聞の社員らが大釣鐘の用途について話し合ったと書いている。その話し合いで、「(大釣鐘の)上部に穴が空いているのは幸いだから、この際、征露軍の用に供したなら、国家の大利益となる」という案が出たとしている。
参照記事:【調査報道の源流】大釣鐘を征露軍備の大砲に/皮肉と風刺画で/宮武外骨「滑稽新聞」№35
何たる皮肉。大釣鐘は、日露戦争の大砲でなく、昭和の大戦の軍用のために鋳潰されたことになる。
そして、1942年(昭和17年)12月25日に、いよいよ鐘が供出されることになったため、撞き納めの法要が行われたという。
あらゆる方法で探したが、四天王寺の大釣鐘に関する著作物は、今ではほとんど見つからなかった。四天王寺も、かつては、「世界無二」と喧伝した大釣鐘については、寺の恥辱としてなかったことにしたかったのか。そんな中、市村元氏が『鋳造工学』という学会誌(1998年、70巻1号、P57-62)に、四天王寺の大釣鐘の末路についての論文を書いている。最後の撞き納めの様子も出ていた。「大釣金儲け」は、結局、こういう結末だったかというのが、ウオッチドッグ記者の感想だ。
「・・・どうせ使われることのなかった鐘で、いわば持てあましていた状況だったこともあって、世界一の巨大鐘とはいっても四天王寺に未練はなく、惜しげもなく供出に応じた訳である。しかし40年ぶりに鐘音の聞ける最後の機会とあって、その法音を聞き逃すまいと定刻前より善男善女が続々とつめかけ、午前11時、荘厳な腑楽のうちに、諸天讃、勧讃段、三禮、表白、念仏読経、撥遺作法ののち、時の武藤貫主が撞き納めの第一撞を力一杯つけば、ダァーンとあたかも米英に射ち出す大砲の音のような太い響きがあたりにこだました、と報告されている。つまり音は以前と変わらぬ鈍音だった訳だが、それまで永きにわたって鳴らされることもなく放置されていたので、壮大な鐘楼も既に群鳩の巣窟と化していた。そのため第一打を撞いた貫主や、それに続いた知事、師団長らの名士の頭上に、鳩のふんや塵埃があられのように降りそそいだという、笑うに笑えない記事も残されている」
市村元「幻の世界最大鐘 ー四天王寺頌徳鐘の悲劇の生涯」
【余話】
明治時代の大阪で、世界無二の大釣鐘があった。当時の庶民やメディアを巻き込んで、喧々囂々の話題を提供し続けたことは、もう忘却の彼方となってしまった。そんな中、庶民が話題にした歴史をそのままに、幻の大釣鐘を名菓にして代々、売っている店々があるという。四天王寺の門前にあるそうなので、近くを訪れた人は、ぜひ、幻の大釣鐘の名菓をご賞味ください。ウオッチドッグ記者も、四天王寺まで足を伸ばした時は、滑稽新聞の報道を追憶しながら、大釣鐘饅頭や煎餅、カステラ、モナカを食べてみようと思う。
↓1938年9月15日の朝日新聞の記事
↓1938年7月23日の朝日新聞の記事