宮武外骨の1年余りの報道と告発は、当時の読者に強いインパクトを与えた。告発後の明治35年2月5日付の滑稽新聞・第22号は、この事件に対する読者の投書を掲載した。滑稽新聞は、「葦分舟」という読者の投書コーナーを設けていた。
投書の1つを要約すると、「奸智の長けた森平でも、滑稽新聞のやり方に肝をつぶしたことでしょう。イカサマ売薬の隊長の丹平商会に、インチキ手段を策略させないようにしたのは、滑稽新聞の力です。裁判の結果はともかく、滑稽新聞が主張を貫抜き続けることを人々は認めています。社会のため、衆人に代わって滑稽新聞の労に感謝します。滑稽記者万歳」という内容だった。
当時、さまざまな詐欺師が人々を騙し、金儲けしていたことを、苦々しく思っていた庶民が、滑稽新聞社の報道と告発を応援していたということがよくわかる。
◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆
参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという