2025年の大阪万博の誘致に向けて、大阪府知事と大阪市長が積極的に動いているが、今から115年前の大阪で、第5回内国勧業博覧会が開催された。場所は大阪市天王寺周辺で、期間は1903年(明治36年)3月1日から7月31日。博覧会の跡地は、後に天王寺公園や新世界として生まれ変わった。
宮武外骨は、博覧会開催前の明治35年4月15日に発行された「滑稽新聞」第26号で、博覧会に隣接する四天王寺の「大釣鐘(おおつりかね)」を鋳造する計画について、「世界無二の大釣金儲(おおつりかねもうけ)」と批判している。「大釣鐘」計画の実態は、金儲け、便乗商法だと喝破したのである。
1985年(昭和60年)発行の『滑稽新聞 壱(筑摩書房)』で、吉野孝雄氏が「大釣り鐘(約157.5t)」について次のように解説している。
「滑稽新聞は、その計画を『世界無二の大釣金儲』ときめつけ、『俗僧の利益を目的とする此傷徳大金儲を企てて、葷酒食三昧の料に当てんとす』、『文明の今日あり得べからざる馬鹿気の沙汰なり』と批判している。博覧会の人気にあてこんだお寺の商魂を見抜いていたわけである」
さらに、こう続けている。
「滑稽新聞は、最初からこの内国勧業博覧会に批判的だったが、その批判はやがて博覧会の開催後にも続くことになる。この四天王寺の大鐘をめぐって、『大阪朝日』、『大阪毎日』、『大阪新報』、そして『滑稽新聞』と、それ以外の大阪中の新聞もからんで、ある滑稽な珍騒動がまきおこることになる」
滑稽新聞が、紙上で批判し続けた「世界無二の大釣金儲」の顛末はいかに。「大釣り鐘」の調査報道シリーズが始まる。
ウィキペディア「内国勧業博覧会」とは
内国勧業博覧会(ないこくかんぎょうはくらんかい)は明治時代の日本で開催された博覧会である。国内の産業発展を促進し、魅力ある輸出品目育成を目的として、東京(上野)で3回、京都・大阪で各1回(計5回)政府主導で開催された。第5回の大阪での博覧会は、日本が工業所有権の保護に関するパリ条約に加盟したことから海外からの出品が可能となり、14か国18地域が参加し、出品点数31,064点と予想以上の出品が集まった。この数字は、1900年(明治33年)パリ万博の37か国、1902年(明治35年)グラスゴー万国博覧会の14か国と比べてもあまり遜色なく、事実上小さな万国博覧会とみなしても差し支えないだろう。
博覧会跡地は日露戦争中に陸軍が使用したのち、1909年(明治42年)に東側の約5万坪が大阪市によって天王寺公園となった。西側の約2万8千坪は大阪財界出資の大阪土地建物会社に払い下げられ、1912年(明治45年)7月3日、「大阪の新名所」というふれこみで「新世界」が誕生。通天閣とルナパークが開業した。
◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆
参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという