大阪で行われた第5回内国勧業博覧会の開催にあわせて、隣接する四天王寺は、「世界無二の大釣鐘」を作ると喧伝し、庶民らから喜捨を集めて大釣鐘を鋳造をした。しかし、鋳造の前後も、博覧会が終わってからも、いっこうに土中から、大釣鐘を引き揚げようとしなかった。引き揚げないだけでなく、土中に大釣鐘を据え置いたまま、博覧会の会期中も会期後も、破壊の事実を伏せたまま、観覧料をとっていた。明治のジャーナリスト宮武外骨は、この寺の対応を徹底批判した。

さらに、四天王寺の大釣鐘をめぐる報道において、当時の大阪で販売数№1の大阪朝日新聞の姿勢も批判してきた。大阪人なら誰もが知らぬ者はいないという四天王寺の大釣鐘破壊の事実を報道せず、「鋳造の成績は十分良し」と寺のヨイショ記事を報道し続けてきたことを「朝日新聞の強情」という記事で追及している。

大釣鐘の引き揚げについて、大阪朝日新聞は、「大釣鐘の中型を取り除くのに準備が足りないので、引き揚げは来春の彼岸頃の見込みとする」と四天王寺からの発表報道をそのまま掲載した。宮武外骨は「寺の坊主の依頼によった記事だ。その浅慮のほど、浅はかなり」と明治36年8月20日の滑稽新聞・第55号の記事で、大阪朝日新聞の報道を批判した。

滑稽新聞によると、大阪朝日新聞の大釣鐘の引き揚げの報道は下記の通りだった。

鋳造前は、「鋳造後約半月の日数あったら、鋳型より外して引き揚げる」と明治36年2月上旬に引き揚げると報道した。

鋳造後は、「都合上、会期中は引き揚げず。閉場と共に直ちに引き揚げウンネン」と報道した。

閉場後は、「地上引き揚げの期は、本年中(明治36年)にて柱を建て、仮に吊るすまでには、明春(明治37年)の彼岸頃の見込み」と報道した。

宮武外骨は「ここに至っては、3歳の児童でもその欺瞞策の言葉を責めない者はいないだろう。来春の彼岸に引き揚げできなければ、今度は『都合上、明治100年の冬頃』と報じることになるかもしれない」と大阪朝日新聞の我欲妄言に起因する強情な報道が馬鹿らしいと締めくくっている。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという