明治のジャーナリスト宮武外骨は、明治38年9月20日付の滑稽新聞の号外で、「日本国民の涙」と題した記事を掲載。当時の新聞社のひとつ、ニ六新聞が、日露戦争で出征軍人6万人の出血多量を計算し、「この多量の血液を以て勝ち得たもの即ち樺太の半部なり。その値何ぞ貴きや。我ら国民はこの貴き○○を払うて、遂に下らぬ代物を買被れり。その罪誰にかある」と掲載し、新聞紙条例の違反として当局者から告発されたことを紹介している。

宮武外骨は、「ナンデこのような記事が、社会の秩序を壊乱するのか。我々には、とんと解せないが、察するに、血という題だけを見て、こりゃヒドイと当局者が血迷うたのだろう。我輩はこれに倣って『血』ではなく、『涙』で計算してみる。まさか、『涙』の計算ならば、条例違反だと言われることもあるまい」と皮肉っている。

続けて、「涙、涙、涙」と題した記事では、「我が同胞国民5千万というからには、今回の屈辱事件について、男女5千万の総泣きありたるものと見て誤りなかるべし」と日露戦争の講和条件を聞いた国民感情に言及。1人の落涙量を1合(約180㎖)とし、国民5千万人の総落涙量を当時の鉄道の長さや地球の周囲などに換算。すなわち、関西諸国の地面一帯が、「涙の池」となるほどの量が流れたようなものだとしている。

さらに「この多量の涙を以て、遂げ得たものは、東京市民の破壊焼討と神戸市民の伊藤(博文)狒々銅像の引き倒しの暴挙ありしのみ。その値何ぞ貴きや。嗚呼大なる涙。吾ら同胞国民の一部は、この貴き涙を注ぎて、遂にクダラヌ事を仕出かしたり。その罪果たして誰にかある」と書いている。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという