明治のジャーナリスト宮武外骨は、明治政府によって明治38年9月6日に発布された言論封じの非立憲的新法律を、「畏るべき新法律の発布」というタイトルで、12日発行の「滑稽新聞」の号外で批判した。しかし、その号外が翌日、大阪府知事の命令により「発行停止」処分となった。
外骨は、発行停止期間中の10月10日に、発行停止を受けた心境を綴った記事を編集。発行停止が解除された後、11月20日付「滑稽新聞」104号で、この記事を掲載している。
外骨は停止期間中の新聞を発行できない心境を綴っている。
「解停が何時の頃であるか、それは一向に分からない。そこで、今日か明日かと便りないことをあてにして、毎日アッケラカンと口を開けて待っているのは、阿保らしいから、記者は発行停止を命ぜられた翌日『天は我々に安息日を授け給う』と負け惜しみを言いつつ、釣り具一切を携えて泉州の海岸へ行った」
そして、次頁では、「号外の記事には、新法律に該当するものとして、発売禁止、発行停止の厳達を受けたが、全紙面中に暴動を教唆したり犯罪を煽動したりする記事は一つも無いのである」と断言。「いづれの記事が法律違反であるかわからなかったが、大阪地方裁判所の公判において、号外の「『刺客煽動の記事』と題する記事が、刺客煽動の記事であるという理由で、罰金の言渡しを受けた」としている。
「刺客煽動の記事は、記者が刺客を煽動するつもりで載せたのではなく、刑事問題の報道も兼ねて、天下世論の一般を示し、併せて当局者の処置が前後不揃いであることを攻撃したに過ぎないのである」と、なぜこれが、条例違反にあたるのかと、疑問を投げかけている。そして「不法の検挙、不法の判決と言わねばならぬ」と結論づけている。
さらに、こうした背景について「今回の記事に限って、かれこれ屁理屈を付けて、有罪の告発、起訴、判決があったのは、不独立の警察屋司法屋共が、血迷い上官の命令に血迷った結果であろうと思う」と、痛烈に批判している。
条例違反とされた記事は、他紙の萬朝報「嗚呼千古の大屈辱」と「破棄の余地あり」、大阪朝日新聞の「国民の叫び」、ニ六新聞の「死以上の責任」と「公憤録」と「要領を得ざる書信」などの記事が、刺客を煽動する記事ということで処分を受けたあらましを掲載しただけ。「云々であると記したその云々がイケナイというのであるが、斯くの如き刑事問題の略報を条例違反として罰金の言い渡しを受けたのは、新聞雑誌が出来て以来、本社が初めてである」と憤りを滲ませている。
さらに続けて「本社は、不服控訴を申し立てているのだが、もしも大阪控訴院において棄却された時には、大審院へ上告を申立て、尚、弁護士に十分の弁論を頼んであくまでも不服を唱える」と罰金判決に断固とした信念を貫く意志を固めている。
↓明治の新法律によって、発売禁止、発行停止の処分の原因とされた滑稽新聞・号外の「刺客煽動の記事」。斬客煽動の記事として処分を受けた他紙の報道の概略を紹介した記事が、刺客煽動の記事として処分の対象となった。
◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆
参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという