明治のジャーナリスト宮武外骨が明治38年(1905年)11月、滑稽新聞・第104号で、滑稽新聞の発行停止と発売禁止の批判記事を書いたが、その第104号も発行停止の処分が下った。度重なる発行停止処分に憤慨していると、6日目に新法律が廃止になり、発行停止の暴圧も解除されたという。外骨は12月3日に、「蛮政頓挫、暴令の廃止」というタイトルの記事を滑稽新聞・第105号に掲載。解除後の「受書出さず」の余談にも触れ、一連の顛末を綴っている。

105号の一部をそのまま掲載する。
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憲政を無視して野蛮なる暴令を発した現桂内閣配下の者どもは、我が滑稽新聞に対しても、発行停止の暴達を加えた。9月13日から11月14日まで63日間の長期間である。糞腹は立ったが、暴令の存在する間は、その暴令に触れないようにせなければならぬと、思う十分の一も述べずに第104号を発行した。トコロが案外にも重ねての暴達。

俄か拵えにしろ国家の法令に発布した条文に触れべき記事があるなら仕方もないが、閣臣攻撃と妖婦お鯉の事など、社会の公益を害すべき記事は一つも書いてない。憤激はしてみたもの、差当りの撃退の良法を案出しないから、他日の時期を待つより外はないと諦めて、記者はまたも魚釣りに出かけていると、案外にも僅か6日目に蛮政頓挫で暴令廃止、発行停止の暴圧も自然の解除。
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この後に、「サ―これから思う存分のことを書くつもりだがここについでながら、面白い一事を報道しておく」と発行停止解除後の余談を掲載。

大阪府知事の名義で「解除」の通達が滑稽新聞社宛で届いたという。受け取ったら、受書を出さなければならなかったが、「ヘン、馬鹿馬鹿しい。コンナ達しが無くても自由に発行できるようになったんだ」と受書を出さずにいた。ところが、府の警察部から、再三電話で「受書を出せ」と催促してきた。「我社は、アンナ達書に受書を出す必要がない。受書を出さなければならないという面倒くさい事ならば、達書を返すから取りに来てください」と答えたという。

「我社のイコジな事は、我社の特色だが、さすがにコセツキの警察部もこれには閉口したと見えて、引っ込んでしまった。チョット可笑しいじゃないか」

↓デジタル版 日本人名大辞典+plus

桂太郎 かつら-たろう

1848*-1913 明治-大正時代の軍人,政治家。
弘化(こうか)4年11月28日生まれ。参謀本部にはいり,山県有朋を補佐して陸軍の軍制改革に着手。日清(にっしん)戦争に出征。第3次伊藤内閣などの陸相として軍拡政策を推進した。明治34年第1次桂内閣を組織,以後西園寺公望と交互に政権を担当。大正2年第3次桂内閣は護憲運動により2ヵ月で総辞職。陸軍大将。

◆「滑稽新聞」は、毎週水曜日に掲載◆

 参照:滑稽新聞とは/コトバンクより
1901年(明治34)1月25日,宮武外骨が大阪で発行した雑誌型(A4判通常20ページ)の権力風刺新聞(月2回刊)。〈強者を挫いて弱者を扶け,悪者に反抗して善者の味方になる〉の発行趣旨のもと,権威をふり回す官吏,検察官,検事,裁判官,政治家,僧侶,悪徳商人,悪徳新聞に筆誅(ひつちゆう)を加え,詐欺広告やゆすりを告発するなど痛烈過激の記事を風刺画入りで満載したため,庶民の人気を集め,最盛期には8万部を発行したという